経営研究レポート
MJS税経システム研究所・経営システム研究会の顧問・客員研究員による中小・中堅企業の生産性向上、事業活性化など、経営に関する多彩な各種研究リポートを掲載しています。
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2025/10/10 行政DX
2025年重点計画が示すデジタル社会実現の方向性
1.はじめに2025年6月13日に、2025年度版「デジタル社会の実現に向けた重点計画(注1)(以下重点計画)」が閣議決定された。重点計画は、デジタル社会形成基本法(注2)、情報通信技術を活用した行政の推進等に関する法律(注3)、官民データ活用推進基本法(注4)に基づいて策定され、2021年から毎年改定されているものであり、我が国がデジタル化を強力に進めていく際に政府が迅速かつ重点的に実施すべき施策を明記することで、各府省庁がデジタル化のための構造改革や個別の施策に取り組み、また、それを世界に発信・提言する際の羅針盤とするものである。今年度の重点計画では、人口減少や労働力不足といった課題に対し、デジタルを最大限活用して社会変革をもたらし、産業競争力の強化・経済成長の実現、中長期的な公共サービスの維持・強化を目指すとしており、最終的には、質の高いデータによってAIの性能が向上し、高性能AIがより多く使用されることで、さらに性能が向上するという「データとAIの好循環」を確立し、一人ひとりの生活の質向上を通して、個人の幸福・自由、Well-Beingを達成する「データ駆動社会」を実現することを目指している。本稿では、今年度の重点計画の詳細を解説するとともに、従来の重点計画との変化を調べることで、我が国のデジタル政策の今後の方向性を見ていきたい。2.2025年度重点計画の概要重点計画が示すデジタル社会とは、「デジタルの活用により、一人ひとりのニーズに合ったサービスを選ぶことができ、多様な幸せが実現できる社会」であり、具体的には、場所や時間を問わず、国民一人ひとりのニーズやライフスタイルに合ったサービスの享受や働き方ができる社会、そして自然災害や感染症等の事態に対して強靱な社会が挙げられている。これは「誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化」の推進につながるものであり、単なる「行政のデジタル化・デジタルトランスフォーメーション(DX)」だけでなく、「社会全体のデジタル化・DX」を推進することを目指している。ここで、我が国は、デジタル社会の実現に向けて以下のような深刻な課題に直面している。人口減少と労働力不足2070年には総人口が現在の約7割に減少し、生産年齢人口も2050年には25%減少する見込みであり、行政サービスの維持が困難になることが懸念されている。サイバー空間における脅威の増大DXやAI・量子技術の進展に伴い、サイバー攻撃の質・量が向上し、重要インフラの停止等、経済社会や国民生活、安全保障への影響が深刻化している。国際情勢の変化とデジタル化の遅れ国際的な不透明感が高まる中、データ利活用が新たな付加価値創出に重要であり、DFFT(DataFreeFlowwithTrust:プライバシーやセキュリティ、知的財産権に関する信頼を確保しながら、ビジネスや社会課題の解決に有益なデータを国際的に自由にデータ流通させること)の重要性が一層高まっている。また、スイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した2024年世界デジタル競争力ランキング(注5)では日本は67か国中31位、アジア太平洋地区においても14か国中10位と大きく出遅れており、AI・デジタル技術の活用を阻害する制度の見直しや、AIフレンドリーな環境整備が急務となっている。これを受けて、本計画では、これら課題に対応するために、以下の点を中心に取り組みを進めるとしている。1)AI・デジタル技術等の徹底活用による社会全体のデジタル化の推進政府におけるAIの積極的利活用政府等におけるAI基盤(ガバメントAI(仮称))をクラウド上に構築し、AI機能の高度化に向けて政府保有データの整備・普及を行う。また、「AIアイデアソン・ハッカソン」を通じたユースケースを発掘やAI検証事業を実施する。さらに、2025年度中には、AIを活用して、パブリックコメント業務における意見の整理・集約を行うプロトタイプを開発し、各府省庁での利用を目指す。地方創生2.0(注6)の実現地方創生2.0の基本的な考え方(注7)に基づき、デジタル公共財の共同利用・共同調達を促し、地域の社会課題解決や新しい地方経済の創出を図る。特に、地域のデータを集約し、行政手続や交通、防犯、観光等の様々なサービスに活用するシステムであるエリアデータ連携基盤を共同利用する団体数を200団体とする目標を掲げており、エリアデータ連携基盤を用いて個人に最適化されたサービスの実現を推進する。また、市民の「暮らしやすさ」と「幸福感(Well-being)」を図る指標としてデジタル庁が導入している地域幸福度(Well-Being)指標(注8)の活用自治体数を2026年度末までに180件とすることを目指し、これを用いた分野横断的な政策立案や住民を巻き込んだまちづくりを進める。デジタルライフライン全国総合整備計画の推進ドローン航路の整備や自動運転サービス支援道の設定等、デジタルインフラの全国整備を加速する。具体的には2025年度以降に東北自動車道に約40kmの自動運転サービス支援道を設定し、2027年度を目途に送電網上空の1万km、2033年度までに4万kmのドローン航路を整備する。2)マイナンバーカードの普及・利活用とマイナポータルの利便性向上マイナンバーカードの「市民カード化」最も信頼性の高い身分証であるマイナンバーカードを、「デジタル社会のパスポート」と位置づけ、更なる普及と利活用を推進する。具体的には、健康保険証や運転免許証、在留カード等との一体化を推進するとともに、2025年度中には全国の消防本部で救急業務にマイナンバーカードを活用した実証事業(マイナ救急)を実施し、2026年度以降の全国展開を目指す。また、自治体・医療機関等をつなぐ情報連携システム(PublicMedicalHub:PMH)(注9)を活用し、マイナンバーカードを健診の受診券として利用する取り組みを拡大するとともに、2025年度には「電子版母子健康手帳ガイドライン(仮)」(注10)を策定する。災害時には、マイナンバーカードを活用して避難所での受付や健康医療情報の取得、罹災証明書のオンライン申請等を実施し、被災者の利便性向上を促進する。各種行政手続のオンライン化・デジタル化2025年の法改正により、マイナンバーの利用可能事務が追加されたことから、更なる行政手続のデジタル完結を推進し、「デジタルファースト」「ワンスオンリー」「コネクテッド・ワンストップ」の原則に基づき、添付書類の省略やオンライン本人確認手法の見直しや利便性向上策を検討する。具体的には、2025年度中には就労証明書のデジタル化および保活情報連携基盤への機能実装を、2026年度を目途に出生届のオンライン化を目指した検討を行う。また、マイナポータルとe-Taxの連携を充実させ、「日本版記入済み申告書」(書かない確定申告)の実現を図る。行政機関サービス等で利用されるスマートフォン向け個人向けデジタル認証アプリサービス(2024年6月から運用開始)については、2026年夏頃にマイナポータルアプリと統合し、更なる利便性向上を目指す。3)競争・成長のための協調地方公共団体情報システムの統一・標準化、ガバメントクラウドの活用人口減少社会に対応するため、自治体の基幹20業務の標準化に取り組み、原則として2025年度までに標準準拠システムへの移行を目指す。また、更なるガバメントクラウドの利用拡大を図るとともに、国以外の機関(地方公共団体、独立行政法人、民間公共SaaS事業者等)についてもガバメントクラウド利用料割引制度等を導入することでその利用を促進する。ベース・レジストリ(公的基礎情報データベース)の整備・運用、データ利活用制度の抜本的見直しワンスオンリー等の実現を通じて、法人ベース・レジストリ、不動産登記ベース・レジストリ、アドレス・ベース・レジストリの整備を推進する(ベース・レジストリとは、公的機関等が正当な権限に基づいて収集し、正確性や完全性等の観点から信頼できる情報を元にした、最新性、標準適合性、可用性等の品質を満たすデータのこと。また、官民サービスの共通基盤として利活用できるものを指す。例えば、住所に関しては、誰もが参照できるマスターデータが存在せず、不動産登記データとの連携が図られていないことから、現時点では引っ越し手続きのオンラインでの完結は不可能であるとされている)。官民の連携を進めるため、官民データ活用推進基本法の抜本的改正や個人情報保護法の改正、新法制定を検討し、次期通常国会への法案提出を目指す。また、データ連携プラットフォーム機能の整備に向けた法的な規律整備を含め、必要な検討を行う。4)安全・安心なデジタル社会の形成に向けた取組偽・誤情報等対策:生成AIに起因する偽・誤情報を始めとした、インターネット上の偽・誤情報の流通・拡散に対応するための技術開発、利用者のリテラシー向上、情報流通プラットフォーム対処法による制度的対応を進める。サイバーセキュリティ対策の強化:政府機関等のサイバーセキュリティ確保のため、セキュリティ・バイ・デザイン(情報セキュリティをシステム等の企画、設計段階から確保するための対策を取っていく考え方)やDXwithCybersecurity(セキュリティを確保しつつ,DXを進めるという考え方)といった考え方を踏まえ、PDCAサイクルによる継続的な政策改善とOODAループによる機動的なオペレーション強化を進める。また、地方公共団体のサイバーセキュリティ対策の向上に取り組み、全ての自治体情報セキュリティクラウドの円滑な更新を行う。災害時におけるデジタル活用の推進:2025年12月までに防災デジタルプラットフォーム(注11)を構築し、災害対応機関が迅速に災害情報を集約・共有できる環境を整備する。また、2025年度に「災害派遣デジタル支援チーム(仮称)」制度を創設し試行運用を開始する。5)デジタル人材の確保・育成と体制整備デジタル人材の確保・育成:日本のDX推進力を強化するため、デジタル人材の確保・育成と体制整備を進める。具体的には、2026年度までに230万人のデジタル人材の育成を目指すこととし、文理を問わず、全ての大学生・高専生が数理・データサイエンス・AIを習得することを目指す。このために、「数理・データサイエンス・AI教育プログラム認定制度」の認定を受ける大学等を、2025年度末までにリテラシーレベルで約50万人/年、応用基礎レベルで約25万人/年の規模に拡大することを目指す。また、AI活用に不可欠なデータマネジメント等の充実を図るべく「デジタルスキル標準」を改訂するとともに、2025年度には「セキュリティ・キャンプ」で特定の分野に特化したサイバーセキュリティ対策の実装を担う人材の育成プログラムを新たに設置する。そのほかに本計画では、デジタル原則:「デジタル完結・自動化原則」、「アジャイルガバナンス原則」、「官民連携原則」、「相互運用性確保原則」、「共通基盤利用原則」の5つの原則に基づき、デジタル時代にふさわしい政府への転換を進める。利用者視点:行政サービスの提供において、利用者である国民のニーズや利便性を最優先に考慮する「利用者視点」を徹底する。情報アクセシビリティの確保:「誰一人取り残されない」デジタル社会を実現するため、障害者等を含む全ての利用者がデジタル機器・サービスを利用しやすい環境整備を進める。等も施策として盛り込まれており、日本のデジタル社会をより強靱で、より人間中心のものにするために必要となる2028年度までのロードマップが示されている。3.2025年度重点計画の主な変更点とこれからの方向性2025年度版重点計画では、日本のデジタル社会構築を加速させるため、2024年度版に多岐にわたる変更が加えられており、日本のデジタル社会実現に向けた新たな方向性が示されている。まず、マイナンバーカードの利活用が大きく拡大する。2025年の法改正で利用可能な行政事務が追加されたほか、健康保険証との一体化は2025年12月までに完全移行が進み、2025年9月からは順次スマートフォンでの利用も可能となる。また、運転免許証との一体化も2025年3月から運用が開始され、2025年度中には全国の消防本部で「マイナ救急」の実証事業が展開される。デジタル庁が、令和5年11月~12月に実施したアンケート調査では、マイナンバーカードの携行率は5割とされているが、2026年秋には、iPhone同様に、Androidスマートフォンへのマイナンバーカード全機能の搭載が予定されており、マイナンバーカードとマイナンバーカード相当のスマートフォンを合わせた携行率は、大きく上昇すると予想される。このため、今後は、ほぼすべての住民が、マイナンバーカードを携行していることを前提とした社会システムの検討が進められることになると想定される。また、2025年度版では、AI、特に生成AIの活用が日本のデジタル社会構築の中心的な要素になるとされている。これは、生成AIをはじめとするAI技術の社会実装の進展と、国際的なデジタル競争力向上の必要性があるとされるためである。人口減少や労働力不足といった社会課題に対応するためにも、AIを含むデジタル技術の活用は不可避とされており、これまでの「データの蓄積・利活用が進んでいない」「生成AI等の活用が進んでいない」といった課題を克服し、経済成長につなげることを目指している。具体的には、先に挙げた政府AI基盤(ガバメントAI(仮称))の構築することで、プライバシーデータや機密データを含む多様なデータを基盤上に安全に蓄積しそれらを安全に連携させる最適化AI技術の確立、地方公共団体へのAIサービス展開支援の実施、ベース・レジストリ等のデータ連携を促進するための官民協議会の設置、生成AIとセキュリティに関するガイドラインの策定が計画されている。これらの取り組みは、行政分野におけるAI技術の可能性を最大限に引き出しつつ、その安全性と信頼性を確保し、国民生活の利便性向上と行政の効率化を両立させることを目指すものである。さらに、行政分野・準公共分野のデジタル化と効率化も進められる。地方公共団体の基幹20業務は、原則として2025年度までに標準準拠システムへ移行することとなっており、その基盤となるガバメントクラウドの利用についても2025年2月時点で2024年8月と比較して335%増加するなど、これらの利用が大幅に拡大している状況にある。この流れを加速するために、公共SaaSの整備に関する基本的なガイドラインが2025年度中に提供され、ガバメントクラウド上での開発環境も2025年中に開発・提供される予定となっている。また、医療分野では、マイナ保険証への移行と共に、電子カルテ情報共有サービスや介護情報基盤を含む全国医療情報プラットフォームの本格稼働を目指しており、医療と介護の切れ目ない連携を目指す包括ケアシステムの構築を目指す。これらの取り組みは、行政の効率化だけで無く、国民の利便性向上、そして安全で信頼性の高いデジタル社会の実現を推進するものであり、特に、官民連携による共通基盤の活用や健康・医療・介護のデジタル化による新たな民間サービスの創出は、新たな産業の創出や国民生活の向上に直接関与するものとして期待される。4.終わりに本稿では、2025年重点計画が示す今後の日本のデジタル化の方向性を見てきた。この重点計画は、日本が抱える様々な課題に対し、デジタル技術の徹底活用によって社会全体の変革を目指す包括的な戦略であると言える。特に、「作るより使う」という発想で、世の中、特に公共分野の情報システムの共通化やモジュール化を進めることで、効率的かつ再利用可能なデジタル環境を構築しようとしている点は重要であり、認証基盤としてのマイナンバーカードの活用拡大や政府全体で使うことのできるAI基盤の構築、官民で利用できるベース・レジストリの構築等はそのための一歩として評価できる。今後は、技術の急速な進展、特に生成AIの社会実装の進展に対応するため、官民が一体となって柔軟かつ粘り強くデジタル改革を推進することが、豊かで持続可能な社会の実現の鍵になると考えられる。これらの取り組みを通じて、「誰一人取り残されない人に優しいデジタル化」が実現されることを期待したい。<注釈>デジタル社会の実現に向けた重点計画2025年(令和7年)6月13日(デジタル庁)https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/5ecac8cc-50f1-4168-b989-2bcaabffe870/173b3039/20250613_policies_priority_outline_08.pdfデジタル社会形成基本法(デジタル庁),https://laws.e-gov.go.jp/law/503AC0000000035情報通信技術を活用した行政の推進等に関する法律(デジタル庁),https://laws.e-gov.go.jp/law/414AC0000000151官民データ活用推進基本法(デジタル庁),https://laws.e-gov.go.jp/law/428AC1000000103IMDWorldDigitalCompetitivenessRanking(IMD:InstituteforManagementDevelopment),https://imd.widen.net/s/xvhldkrrkw/20241111-wcc-digital-report-2024-wip地方創生2.0基本構想(内閣官房),https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_chihousousei/pdf/20250613_honbun.pdf地方創生2.0の基本的な考え方(内閣官房),https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_chihousousei/pdf/honbun.pdf地域幸福度(Well-Being)指標(デジタル庁),https://well-being.digital.go.jp/自治体・医療機関等をつなぐ情報連携システム(PublicMedicalHub:PMH)(デジタル庁),https://www.digital.go.jp/policies/health/public-medical-hub電子版母子健康手帳ガイドライン(仮称)策定に向けた検討会取りまとめ(こども家庭庁),https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/1ceca2fc-2bfe-4657-bf45-ac8aec94171e/2c01fddc/20250312_councils_shingikai_seiiku_iryou_1ceca2fc_14.pdf防災デジタルプラットフォーム(内閣府),https://www.bousai.go.jp/kyoiku/ideathon/pdf/ideathon_gaiyo.pdf提供:税経システム研究所
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2025/09/30 医療経営
戦略的医療機関経営 その167
【サマリー】病院や診療所など形態に関係なく医療機関の経営は、様々な理由で非常に経営が苦しい状況が続いている。その理由の一つが「診療報酬改定」である。診療報酬改定は、医療の値段であり、公定価格である。医療機関の質の高低、努力などは全く関係なく、全国統一価格である。その診療報酬点数が2026年4月に改定される。診療報報酬点数が改定されるのは、4月からであるが、その内容をどこよりも早く予想し、医療機関の現場で改定内容に合わせて、準備をすることが重要である。今回のレポートでは2026年度診療報酬改定に向けて、どのような議論、課題が指摘されているのかを報告し、そこから予想される改定内容をレポートしたい。第1回としては、「入退院支援」「リハビリ」「食事」を取り上げる。1.入退院支援患者が入院して治療を行う際に「入院治療計画書」を作成し、患者の入院時に説明、交付することにより、患者自身が受ける治療内容や病気のことを理解することが目的で、平成8年度の診療報酬改定で新設された点数を皮切りに、ほとんど毎回、診療報改定において、入退院支援が医療機関で行われるように、インセンティブ的な診療報酬点数が付きました。さらに入院時だけではなく、退院時の支援もその内容に加わり、今では入退院支援という考え方になっています。入退院時の支援を行い、患者の理解が深まることで、早期退院(入院期間の短縮)が実現し、患者のためにもなり、さらに医療費の削減にもつながるという考え方です。■入退院支援の評価イメージ出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料前回改定で、入退院支援加算が見直しされました。〔見直し内容〕入退院支援加算の対象となる退院困難な要因を有している者に、特別なコミュニケーション支援を要する者及び強度行動障害の者を追加する入退院支援加算と入院時支援加算を算定する届出施設は微増し、算定回数も年々増加しています。入退院支援加算の届出をしていない理由として、「専従の看護師の配置が困難」や「専従の社会福祉士の配置が困難」、また「退院支援が必要な患者が少ないため」が多かったです。この退院支援が困難な要因としては、「緊急入院であった」が最も多く、特に急性期一般入院料1を算定している急性期病院が高かったです。次に入院時に比べADL(日常生活動作)が低下し、退院後の生活様式の再編が必要であることが多く、この理由が多かったのは、地域包括医療病棟、地域包括ケア病棟、回復期リハビリ病棟です。これらの病棟でも届出をした病院としない病院で比較した場合、届出をした病院のほうが平均在院日数が短いことがわかり、入退院支援の取り組みは在院日数の短縮に効果があることが証明されました。同時に病棟種別に対応が困難な理由が多種存在することも分かりました。入退院支援を行ったほうが在院日数が短くなる理由は、身体的、社会的、精神的背景を踏まえた患者状態の把握、介護・福祉サービスの把握、入院生活の説明のほかに、褥瘡に関する危険因子・栄養状態の評価、退院困難な要因の有無、入院中に行われる治療、検査の説明などが短くなることに効果があると考えられます。緊急入院の場合は、入院前に入退院支援部門が関与できないケースが多く、予定入院であっても急性期入院料2、3、急性期一般入院料4-6、地域包括医療病棟においては、入退院支援部門が関与しないケースが多かったです。■急性期一般入院料1の病棟における患者の流れ出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料急性期一般入院料1の入棟元は、自宅(在宅医療の提供なし)が最も多く、71.6%でした。退棟先は、自宅(在宅医療提供なし)が最も多く66.0%でした。これが急性期一般入院料2-6になると、入棟元が自宅の割合が65.6%となり、退棟先が自宅のケースが62.6%となります。病棟ごとに患者の特性からなのか、入退院先、退院困難な理由が様々です。したがって、入退院支援の内容も、入院料、患者像によって異なる対応をしている可能性が高いです。■病棟毎入退院先・退院困難な要因の特徴出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料■入退院支援に係る現状と課題出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料これらの現状と課題を踏まえて、2026年度診療報酬改定を考えると、入退院支援加算は、病棟種別に特徴が異なるので、一律に評価するのではなく、病棟種別の点数とすることが考えられます。さらに現在はあまり行われていない緊急入院患者に対しても在院日数短縮が見込めることから、入退院支援の対象となるように何らかのインセンティブがつくような点数が考えられます。2.リハビリテーションリハビリテーションは、急性期、回復期、生活期と分けて考えます。急性期は疾患により低下した身体機能・ADL(日常生活動作)を向上(集中的リハ)させ、回復期にかけて、残存する身体機能を活用した生活機能回復を図ります(自助具使用訓練など)そして、生活期では、安静臥床による廃用症候群に伴う身体機能・生活機能の低下予防(離床の促し、トイレ介助など)を行います。■退院後の自立を目指した生活機能のリハビリのイメージ出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料退院前に自宅(家屋)調査を実施します。これは実際の家の状況と、退院前のリハビリの状況に齟齬がないようにするためです。退院前訪問指導料として診療報酬上でも評価されています。退院前訪問指導は、回復期リハビリテーション病棟において包括されているものの、全入院患者の3~5%ほどに実施されており、その割合は他の病棟よりも高く、各入院料を算定する施設において、退院前訪問指導を実施している病院の割合は、14~24%に留まっていました。リハビリは早期に集中的に実施することで、その後のADL(日常生活動作)向上に寄与することが知られています。特に高齢者救急については、入院早期からのリハビリ介入や、早期の退院に治療や生活を支えるためのリハビリを提供できる体制が重要です。入院中のリハビリテーションは、患者の病期に応じて、「身体機能の回復」、「生活機能の回復」、「廃用予防」の3つの目的に沿ったリハビリテーションを適切に提供する必要があります。生活機能回復リハビリテーションについては、在宅復帰を図る上では、身体機能や活動の回復のほか、自助具の使用によるADL獲得のような生活機能の回復、退院後の自立を支援する観点が必要です。生活機能回復に資する加算として、例えば、排尿自立支援加算の届出機関数は限られており、増加も緩徐です。生活の場により近い環境でのリハビリテーションを実践しうる医療機関外でのリハは1日3単位に制限されているが、3単位を超えて実施を行った患者も一定数みられました。(1単位20分です)退院支援については、退院前訪問指導は文献的に再入院の頻度低下、退院後ADLの向上等の効果が示されているものの、算定回数は伸びておらず、実施率は低いままです。実施されている施設では、理学療法士、作業療法士をはじめ多職種が関わっています。回復期リハビリテーション病棟等に一定の頻度で入院する高次脳機能障害の患者について、退院前の情報提供の不足、医療機関と障害福祉関係機関とのネットワークの希薄さ等から、退院後に適切なサービスに繋がることが困難であるとの調査結果がありました。疾患別リハビリテーションの早期介入については、ADL回復、廃用予防の観点から早期リハビリテーションの介入が重要であると報告されています。令和6年に新設された急性期リハビリテーション加算では、入棟からリハビリ開始までの要件が設定されておらず、3日目移行に疾患別リハビリテーションを開始する例が約4割存在します。これらのことから1日3単位の制限が変更される可能性があります、退院前訪問指導も算定回数が伸びていないと指摘があることから、点数の引き上げによる誘導か、実施を何らかの要件にして実施件数を増やすかもしれません。急性期リハ加算では、入棟からリハビリ開始までの要件が設定されていないと自ら分析しているので、何らかの要件が入ってくる可能性が高いです。3.食事「食事は治療」との考え方に基づいて、今まで様々な診療点数で評価してきました。入院中の栄養摂取の方法として、急性期や包括期病棟は約8割の患者が経口接収のみです。慢性期病棟でも約5割の患者が経口接収をしています。栄養摂取が経口摂取のみの患者のうち、急性期病棟の患者の約1割、包括期病棟の患者の約2割、慢性期病棟の患者の約4割は、嚥下調整食の必要性があります。食材費が高騰していること等を踏まえ、令和6年6月より、入院時の食費の基準額について1食あたり30円の引上げを実施。また、その後の更なる食材費の高騰等を踏まえ、医療の一環として提供されるべき食事の質を確保する観点から、令和7年4月より、1食あたり20円の引上げを実施。患者負担については、所得区分等に応じて低所得者に配慮した対応としています。■入院時の食費の基準額について出典:中央社会保険医療協議会(中央社会保険医療協議会診療報酬調査専門組織(入院・外来医療等の調査・評価分科会))(令和7年度第5回)入院・外来医療等の調査・評価分科会資料食事に関する現状と課題は、平成6年10月に食事の質の向上、患者の選択の拡大等を図るため、入院時食事療養費制度を創設しました。入院時食事療養(Ⅰ)を届け出た場合、要件を満たせば特別食加算や食堂加算を算定できます。また、多様なニーズに対応した食事を提供した場合、特別料金の支払いを受けることができます。入院患者の栄養摂取方法として、急性期や包括期では約8割が経口摂取のみであり、慢性期でも約5割は経口摂取しています。経口摂取のみの患者のうち、一定数は嚥下調整食の必要性があります。•食費の基準額は、食材費の高騰等を踏まえ、令和6年6月から1食あたり30円、令和7年4月から更に20円引き上げました。食費の基準額引き上げにより、給食の質が上がったとの回答はわずかでした。一部委託や完全直営の施設の約4割は、30円以上経費が増加しているため更なる経費の削減を行っていました。これらのことから、さらなる引き上げが考えられます。しかし、患者負担による引き上げになる可能性が高いと思われます。嚥下調査についても何らかの点数がつく可能性があります。点数の条件としては経口摂取になると考えられます。提供:税経システム研究所
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2025/09/30 人事労務管理
昨今労務事情あれこれ(214)
1.はじめに最近、「静かな退職」という言葉が注目を集めています。端的にいうと、仕事に対して積極的に関わることを避け、必要最低限の業務のみをこなす働き方を指します。「退職」となっていますが、実際に退職してしまうわけではなく、勤務先に在籍したまま、自身の業務だけを淡々と果たしていきますが、そこに仕事に対する熱意や意欲といったものは存在していないのが特徴です。考えてみると、昔からこのようなスタンスで仕事に向き合う従業員は一定数見受けられたように思えます。しかし、割合でいえば極めて少数であり、また、それをカバーする他の従業員も職場には豊富にいたこともあって、あまり大きな問題にはなっていなかったのではないかと考えます。一方で、昨今の職場環境を見てみると、少数精鋭…といってしまえば聞こえはいいですが、人手不足もあり、どこの職場もギリギリの人員で業務を回しています。そんな中で「静かな退職」をされてしまうと、それをカバーする余力はほとんどないのが現状です。今回は、状況が極まると一気に職場崩壊にもつながりかねない「静かな退職」について考えていきます。2.想像以上に広がっている?「静かな退職」「静かな退職」の実態や従業員側の意識はどのようなものなのでしょうか。人材情報サービスを展開する株式会社マイナビが2024年11月と2025年3月にそれぞれ個人・企業に対してインターネット調査を行い、「正社員の静かな退職に関する調査(2024年実績)」として結果を公表しています(注1)。それによると、20代から50代の正社員に「静かな退職をしているか?」と聞いたところ、「そう思う」「ややそう思う」の回答割合は44.5%に上りました。年代別では20代が最多で46.7%、ついで50代の45.6%、40代は44.3%となっており、年代を問わず存在しているものと考えてよさそうです。また、「静かな退職」をしていると回答した人に対し「静かな退職を今後も続けたいか?」と聞いたところ、「続けたい」とした回答が全体で70.4%にも上りました。こうして見てみると、「静かな退職」は経営者側が考えている以上に、従業員側では「当たり前」になりつつあるのかもしれません。なぜ従業員は「静かな退職」を選んでしまうのかというと、時代の流れとともに仕事に対する意識や価値観が変化したことが理由の一つになっていると感じます。かつては会社のために尽くす働き方がもてはやされ、仕事が生きがい、趣味は仕事…という従業員も珍しくはありませんでした。しかし、今ではワーク・ライフ・バランスが重視され、プライベートをより重視したいと考える従業員が増えています。特に若年層においては今や「仕事は生活の一部に過ぎない」意識が広がっているのです。また、正当な評価が得られない、給与と仕事量が見合っていない、責任ばかり持たされて昇進するメリットを感じない…といったところも「静かな退職」が増えている要因といえそうです。ただ、経営者としては、これを「時代や気質の変化だからしょうがないよね」と手をこまねいているわけにもいきません。「静かな退職」が蔓延すると、職場に何が起こってしまうのでしょうか。3.「静かな退職」がもたらす職場への悪影響冒頭で述べたように、「静かな退職」を実行している従業員は必要最低限の業務しか取り組みませんし、意欲や熱意を持って仕事にあたっているわけでもありません。そうした従業員が職場や部署にいる場合、さまざまな悪影響がもたらされます。1.士気や生産性の低下意欲や熱意を持って、仕事で結果を出そうと奮闘している横で、淡々と自分のことだけをやって終わり…なんてことをやられたら、不快感を覚える人がほとんどでしょう。それが度重なれば、職場全体の士気に影響を及ぼすことは確実です。また、業務全体のことよりも、自分のペースを大事にすることが目立つようになるため、業務の進行が遅れるなどの生産性への影響も懸念されます。2.職場環境や人間関係の悪化必要最低限のことしかやらないため、会議などでもアイデア出しはおろか、発言すらしないことも当然の雰囲気になります。チームへの貢献意識は皆無といってもいいでしょう。また、その人の業務の一部を誰かがカバーしなければならなくなることもありますが、今や人員に余裕のある職場ばかりではないわけで、そうなると周囲と軋轢を生んで従業員間でトラブルに発展するなど、職場の雰囲気を悪くすることが起こります。3.人材流出や連鎖的な「静かな退職」の蔓延1.2.の事態に会社が気づかない、または気づいても何ら対策しないでいるとモチベーション高く仕事に取り組んでいる従業員は会社に失望する、真摯に業務に取り組むことに無力感を覚え、それが極まると退職してしまう恐れがあります。また、「頑張らないことが許される」と感じた他の社員が同じように「静かな退職」を実行し始める懸念もあります。このような形で静かにじわじわと悪影響が広がった末に、最後はその職場の業務が回らなくなる「職場崩壊」に追い込まれてしまうことすらあるわけです。では、「静かな退職」を実行する従業員を生まないために、会社としてできるのはどのようなことなのでしょうか。4.会社としてできることは?従業員が「静かな退職」に向かってしまう背景として「不公平感の増大」が挙げられます。「自分ばかりが大変な思いをしている」「懸命に成果を出しても思ったより評価されない」といった不公平感(実際に不公平かどうかは別として)、そんな不公平感を押し殺して頑張った末に管理職に昇進したら、今度はパワハラをはじめとする数多のハラスメントを犯さないよう窮屈な思いをしながら部下の指導やフォローをしなければならない、そんな立場と賃金は見合わない…などと考え始めると、会社の人事評価基準に疑問や不満が生まれてしまい、頑張りを放棄する要因になります。人事評価基準の評価項目や評価基準を明確化し、「何をどこまでやったらどのような評価が得られるのか」をはっきりさせる、貢献に対しては貢献度に応じた賃金・賞与や処遇で報いるなど、納得感が高い人事評価を行うための「ものさし作り」が重要になるでしょう。また、先述のようにワーク・ライフ・バランスを重視した働き方を求める従業員が増えていることを踏まえると、働きやすい職場の整備も重要です。働き方改革や労働時間の上限規制の流れもあり、以前のような常態化した長時間労働の職場は減ってきていますが、テレワークの推進や短時間勤務、時差出勤など多様な働き方を整備し、従業員がライフスタイルに合わせて働くことができる環境を提供することは、仕事への満足感や、やりがいの醸成に資するものとなるでしょう。ヒト・モノ・カネの経営資源のうち、「ヒト」だけが感情を持ち、その振れ幅一つで仕事への姿勢が左右されます。「静かな退職」を実行する従業員はその振れ幅が負の方向に向かっている状態といえます。いかにしたら負の方向に振れてしまわないのかを真剣に考え実行していくことが「静かな退職」を防ぐカギになります。<注釈>「正社員の静かな退職に関する調査2025年(2024年実績)」マイナビキャリアリサーチLabhttps://career-research.mynavi.jp/reserch/20250422_95153/提供:税経システム研究所
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2025/09/30 企業経営
中小企業のM&Aと企業価値評価(第19回)
【サマリー】引き続き我が国の中小企業におけるM&Aと企業価値評価の実務について解説します。前回は最終契約の締結に向けた詳細条件の交渉について説明しました。本稿ではターゲット企業の株式を売り手から買い手に移転させるための手続について説明します。本稿では引き続き下記図表1の11.について説明します。【図表1M&Aの基本的な流れ】前稿で説明した最終契約の締結に向けた詳細条件の交渉が完了した後に、株式譲渡契約書を作成して双方で条件等の最終合意に至ることになります。株式譲渡契約書は条件付き契約という特徴があります。つまり、この条件が充足されれば売却するもしくは買取るという契約であり、当該条件が充足されなければ取引は実行されません。言い換えると、クロージング(取引の実行及び完了)という概念を用いてクロージング時点で前提条件が充足されたことを確かめて株式譲渡取引を完了することとなります。株式譲渡契約書の体系は次の通りとなります。1.株式譲渡契約書【図表2株式譲渡契約書の体系】本株式の譲渡本株式の譲渡譲渡価格本件取引の実行表明及び保証売り手の表明及び保証買い手の表明及び保証誓約事項クロージングの前提条件解除及び補償雑則まずⅠ.譲渡価格について当初合意した価格と比較してクロージング日時点で企業価値が大きく変動していた場合には価格調整することがあります。中小企業のM&Aでは当初合意価格のままで決済されることが多いのですが、筆者が経験したM&Aでは、譲渡した会社がM&A後に一定水準以上の利益を計上した場合、買い手が売り手に追加の金銭を交付した事例があります。クロージング日に買い手は売り手指定の銀行口座に金銭を振込み、売り手はターゲット企業の株主名簿の名義書換(株式の引渡し)を実行させることとなります。Ⅱ.の表明とは、過去や現在の事実や法律関係について真実かつ正確であることを表明することであり、保証とは現在や将来の事実や法律関係について当事者が責任を負って保証することをいいます。売り手サイドが表明及び保証する項目としては、法令等に抵触している事象の不存在、基準日における財務諸表の正確性かつ公正性、資産や権利の使用制限の不存在、潜在的債務や簿外債務の不存在、紛争や環境問題などの不存在、重要な契約の継続性などが挙げられます。また買い手サイドが表明及び保証する項目としては、本契約の締結や履行に係る能力、訴訟や本契約に悪影響を及ぼす可能性のある事象の不存在などが挙げられます。特に買い手サイドからすれば売り手サイドが表明及び保証する項目に漏れがないかどうかを検証する必要があります。Ⅲ.の誓約事項とは、契約上最大の義務である株式の引渡し及び金銭の支払い以外の付随的な義務をいい、クロージング前に当事者に対して課された義務を履行することが取引実行の前提条件となります。売り手サイドの誓約事項としては、ターゲット企業に重要な資産の譲渡や処分、新たな借入の実行、増資や減資、新たな設備投資などを行わせないこと、売り手サイドで株式譲渡に関する適法な取締役会決議を実施することなどが挙げられます。買い手サイドの誓約事項としてはターゲット企業の従業員の雇用を継続することなどが考えられます。Ⅳ.クロージングの前提条件としては、売り手サイドでは買い手サイドの表明及び保証が真実かつ正確であること、買い手サイドがクロージング日まで履行かつ遵守すべき事項について履行かつ遵守していることが挙げられます。買い手サイドも売り手サイドの表明及び保証が真実かつ正確であること、売り手サイドがクロージング日まで履行かつ遵守すべき事項について履行かつ遵守していることを前提条件として契約書に織り込むことが考えられます。クロージングの前提条件が履行されたかどうかについては、売り手サイド及び買い手サイドそれぞれの責任者が確認した証拠として書面を残してお互いの認識に齟齬がないことを確認することが望ましいです。また、軽微な表明保証違反が原因となって取引中止となるような事態は避けるべきなので、「重要な点において」表明保証や誓約事項を履行遵守するという文言を入れることも実務上はよくあることです。表明保証への重大な違反や誓約事項の不履行に備えて、Ⅴ.解除及び補償の条項も必要となります。2.クロージングクロージング(取引の実行及び完了)は、以下のような手続が実行されます。株式譲渡承認の手続ターゲット企業が株式譲渡制限会社である場合には、売り手サイドの株主がターゲット企業に譲渡承認申請を行い、ターゲット企業の取締役会にて株式譲渡の承認を受ける必要があります。株式譲渡契約書の調印前述した株式譲渡契約書について、双方で調印します。株式の引渡しと譲渡代金の支払い株式譲渡契約書に記載された通り、株式の引渡しと譲渡代金の支払いが同時に行われます。株主名簿の名義書換株式の引渡しを具体化するために、買い手サイドの株主からターゲット企業に株主名簿の名義書換請求を行います。書換後に株主の移動が完了します。臨時株主総会の開催新しい株主(買い手サイド)による臨時株主総会を開催して新しい役員を指名することになります。取締役会の開催及び役員変更登記新しい役員によるターゲット企業の取締役会で代表取締役が選任されるとともに、新しい役員の役員変更登記の手続を行います。上記クロージング手続がすべて完了後、ターゲット企業は新しい株主(買い手サイド)や経営陣の下で新たな経営方針を掲げて事業を継続していくことになります。今後は買い手サイドの企業グループに円滑に統合していくことが必要になります。この点については次稿で説明します。提供:税経システム研究所
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2025/08/29 行政DX
自治体と医療機関・薬局・個人をつなぐ情報連携基盤
1.はじめにデジタル庁は、2023年より自治体が実施主体となっている医療費助成、母子保健、予防接種、介護保険等分野の情報連携を行うためのネットワーク(PMH:PublicMedicalHub)(注1)の開発を進めており、順次全国に展開する予定である。このPMHは、日本の医療DXを強力に推進するための基盤となる情報連携システムであり、医療健康情報の連携を図ることで、国民の生活の質の向上、医療機関・自治体の業務効率化、そして質の高い医療提供体制の構築を目指している。従来、自治体が実施主体となっている医療費助成等分野の業務については、書面を用いた情報連携が主であり、国民、自治体、医療機関・薬局といった当事者にとって、負担が多く改善が必要との指摘があった。このため、この問題を解決するために、2023年6月2日に医療DX推進本部が決定した「医療DXの推進に関する工程表(注2)」において、「関係機関や行政機関等の間で必要な情報を安全に交換できる情報連携の仕組みを整備し、自治体システムの標準化の取組と連動しながら、介護保険、予防接種、母子保健、公費負担医療や地方単独の医療費助成などに係る情報を共有していく」こととされた。これを実現するための仕組みがPMHであり、現在は希望する自治体向けに医療費助成分野、予防接種・母子保健分野を対象とした先行実施事業を開始している。本稿では、このPMHの詳細を見ていくとともに、住民にとってPMHはどのような価値があるのかを見ていきたい。2.PublicMedicalHub(PMH)とは現在、自治体が実施している小児医療費助成や難病疾患に対する医療費助成等の公費医療費助成については、マイナ保険証と受給者証の両方を医療機関受診の際に提示する必要がある。また、公費医療費助成を受けている場合、高額療養費や付加給付等の健康保険からの給付との重複給付を防止するため、健保組合への届出が必要とされているが、必ずしも徹底されていない現状にある。医療機関においても、オンライン資格確認とは別に、公費助成の資格を個別に確認して手入力する手間がかかっているとされ、公費助成を行う自治体等も、受給者証の申請、更新、転入、転出や、助成に係る請求等に関する事務に膨大なコストがかかっているとされている。予防接種・母子保健(乳幼児健診等)についても、受診者は、予診票・問診票を何度も手書きしなければならず、また、母子手帳等の紙の書類を参照しないと健診結果や接種記録を確認することができないとされている。また、医療機関においても、予防接種や健診にかかる費用を自治体に請求するには、書面により費用請求を行う必要があり、非常に手間がかかっている。一方、自治体においても、医療機関から書面で提供される各種情報を、自治体の健康管理システムへ手入力で登録するため、その手間や誤登録のリスクがあるとされ、費用支払に対する事務コストも膨大である。医療にかかる情報化については、厚生労働省が、医療機関、薬局、介護施設でばらばらに保存・管理されている患者の医療関連情報を、一つに集約して共有・管理することを目指して、全国医療情報プラットフォームの構築を進めている。オンライン保険確認システムや電子カルテ情報共有サービスは、この取り組みの中で進められているものであり、全国の医療機関・薬局間で診療情報、薬歴情報等の連携は進んできている。一方で、自治体毎に行われている公費医療費助成や予防接種、母子保健等の施策については、各自治体が独自にこれら情報を扱う情報システム等の整備を進めているため、これら現状を考慮した情報連携の方式を考える必要がある。このため、デジタル庁では、これらの情報連携を実現する仕組みとして2023年度にPublicMedicalHub(PMH)と呼ばれる医療健康情報連携の「ハブ」となる仕組み(図1)の開発を開始し、希望する自治体向けに医療費助成分野、予防接種・母子保健分野を対象とした先行実施事業を行っている。図1PMHの概要図従来のマイナンバー制度による情報連携の仕組みでは、各自治体は他組織と情報連携する情報を、自治体が用意する中間サーバ内に記録し、情報提供ネットワークシステムを用いて他組織に提供する。この仕組みでは、各自治体が、標準仕様に準拠した自前の中間サーバを用意する必要があるだけでなく、新たな情報を中間サーバに追加するために、自治体内のシステムに中間サーバへ情報を送付するための改修を行う必要があり、多大なコストが発生する。またこの仕組みでは、公的機関では無い医療機関から自治体が有する情報の参照が出来ないことが課題となっていた。これに対して、PMHでは、情報連携に必要となるサーバ類は、デジタル庁が構築・運用することとし、自治体はPMHに対して、自治体内部のシステムから直接または間接的に、マイナンバーを含む氏名・住所生年月日等の個人情報に紐づけて、公費医療費助成の情報等を登録することとしている。自治体内の業務システムから、情報連携に必要な情報をファイル出力して、それをPMHに登録することも認められているため、自治体のシステム改修コストを大幅に削減でき、財政が厳しい自治体においても早期に情報連携を行うことが可能となる。ここで、現在、自治体等からPMHに登録が予定されている情報は、表1に示す通りである。次に、具体的な情報の登録、参照の仕組みを見ていこう。例えば、公費医療費助成情報に関する具体的な情報の登録、参照の仕組みは、以下の通りとなる(図2)(注3)。自治体は、PMHに対して、対象者のマイナンバーを含む対象者の個人情報、公費医療費助成情報等の登録を行う(これは、LGWAN回線等の閉域網を経由して行われる)。表1PMHに記録される情報PMHでは、医療保険資格との紐づけを行うために、審査支払基金が運用する医療保険者等向け中間サーバに対して個人番号を通知し、PMHとの連携に必要となるPMH-IDの採番処理を依頼する。医療保険者等向け中間サーバは、PMH-IDを採番して個人番号と共にPMHに回答し、PMHはPMH-IDを内部に格納する。また、医療保険者等向け中間サーバは、オンライン保険資格等確認システムとの間であらかじめ共有している紐付番号とPMH-IDと紐付けて、オンライン資格確認等システムへ送付する。オンライン資格確認等システムは、紐付番号をキーにマイナンバーカード(公的個人認証サービス:JPKI)の電子証明書のシリアル番号とPMH-IDを紐付けて保管する。医療機関でのオンライン保険資格確認時に公費医療費助成情報の要求があると、オンライン保険資格確認等システムはPMH-IDを暗号化して一時的に利用するためのPMH連携キーを生成し、医療機関内のオンライン資格確認端末に送付する。オンライン保険資格確認端末は、PMHにPMH連携キーで公費医療費助成の資格情報を照会し、PMHはPMH連携キーを復号してPMH-IDに紐づく資格情報をオンライン資格確認端末に回答する(PMH連携キーは都度作成され、利用後に削除される)。このため、オンライン資格確認端末を利用して、受診者がマイナンバーカードで認証し、同意することで医療機関は、公費医療資格情報の確認が可能となり、医療機関は、必要に応じて電子カルテ、電子レセプトなどに資格情報の取込みを行うことが可能となる。住民がマイナポータルから公費医療資格情報の確認を行う際には、まず、マイナポータルからオンライン資格確認等システムに対してPMH情報を参照するために必要となる識別子を要求する(マイナポータルからオンライン資格確認等システムに対して、健康保険の情報の閲覧を要求する方法と同じ仕組みを利用)。オンライン資格確認等システムは、マイナポータルに対してPMH-IDを回答し、マイナポータルは、PMH-IDからPMHとの連携に必要となるPMH仮名識別子を生成する。マイナポータルは、PMHにPMH仮名識別子をPMH-IDと紐付けて通知し、PMHはPMH仮名識別子を保存する(連携後、マイナポータルには、PMH仮名識別子のみが保存されPMH-IDは削除される)。以降、住民がマイナポータル経由で公費医療資格情報の確認をする際には、マイナポータルからPMH仮名識別子がPMHに送付されることで、自身の情報をPMHに照会し、確認することが可能となる。図2PMHを用いた公費医療費助成情報参照の流れ(資料3の図を一部改)予防接種・母子保健の情報についても、自治体からPMHへの情報の登録や住民本人が情報を参照する仕組みは、公費医療費助成の場合と同じとなるが、予防接種受診時や乳幼児健診時に、受診者はマイナポータルを介して予診票や問診票をPMHに登録することが可能となり、医療機関は、その情報を参照できる住民本人が明示的に医療機関への情報提供に同意する必要があるため、医療機関からの情報参照については、オンライン資格確認端末とは別の端末を用いてマイナンバーカードによる本人同意のもとで情報が開示される医療機関から予防接種の情報や乳幼児健診の情報をPMHに記録可能であり、受診者本人がマイナポータル経由でその情報を確認するだけでなく、自治体も記録された情報をダウンロードして自治体の健康管理システムに電子的に反映することができる等の点が異なっており、予防接種・母子保健情報の取り扱いに関する利便性向上を計っている。3.PMH導入のメリット次に、PMH導入による、住民、自治体、医療機関のメリットを見ることにする。①医療費助成分野住民のメリット紙の受給者証を持参する手間や受給者証の紛失リスクがなくなり、持参忘れ等による再来院も防止できる。また、マイナ保険証の利便性の向上によって、マイナ保険証自体の利用が促進されることになり、副次的に過去の服用薬剤や診療データに基づくより良い医療の提供が図られる。厚労省が示している2024年9月時点での年齢別マイナ保険証利用率(注4)を見ると、子ども医療費の受給者証を提示していると想定される0歳~19歳の子供のマイナ保険証利用率は5~7%台となっており、20歳以上の12~19%台に比べて低い水準にとどまっている。マイナ保険証と公費医療費助成用受給者証の一体化が進むことで、この年齢層のマイナ保険証の利用が促進されると想定される。自治体のメリット資格情報が電子的に提供されるため、正確な情報に基づき医療機関・薬局から請求が行われることになる。このため、資格過誤請求が係る事務負担の軽減、資格確認に関する自治体への照会の低減、患者の受給者証忘れによる自治体窓口での償還払い手続きの低減等が期待でき、自治体の事務負担を軽減できる。また、マイナ保険証での対応を希望する受給者に対して受給者証を発行しないこととした場合、受給者証を定期的に印刷・発行・送付するための事務負担やコストが削減できる。医療機関・薬局のメリット医療保険の資格情報と公的医療費助成の受給者証情報の自動入力による事務負担軽減、医療費助成の資格を有しているかどうかの確認に係る事務負担を軽減できる。また、正確な資格情報に基づき請求を行えるようになるため、資格過誤請求による事務負担を軽減できる。②予防接種・母子保健分野住民のメリットマイナポータル経由で、いつ、どのワクチン接種や健診が必要かを、スマホ等から確認することができるとともに、リマインド通知等に対応することで接種忘れや受診忘れ等を無くすことができる。また、PMHに検診結果等がほぼリアルタイムで電子的に保存されることになるため、いつどこからでも最新の情報を確認することができる。将来は、自治体の保健師や医師・助産師へオンラインでの相談を行うことも可能になる他、災害時や緊急搬送時に、救急隊が必要情報を即時確認できるようになる可能性がある。自治体のメリット母子手帳の電子化が遅れている自治体においても、PMHに検診結果等が電子的に保存されることになるため、電子母子健康サービス等の導入が容易になり、将来的な母子手帳の完全電子移行が可能となる。接種券・受診票も電子化することができ、印刷・封入にかかる手間やコストを大幅に削減することができる。また、リアルタイムで地区別・年齢別の接種率を分析することが可能となるため、これら情報を活用した政策立案や国等への報告書作成作業の簡素化を実現できる。医療機関のメリットPMHに記録された情報や予診票を電子カルテと連携することで、接種歴、妊娠経過、既往症を迅速に確認でき、診療の質の向上や診察にかかる事務負担の軽減が可能となる。予約システムと連動することで、ワクチンの在庫管理等を実現することや受診者へのリマインド通知等の実施による無断キャンセル率低減、廃棄ロスの削減を実現できる。4.終わりに本稿では、デジタル庁が中心となって整備が進められているPublicMedicalHubについて解説した。現在政府は、個人に関する様々な健康医療情報を利用者本人の意思で利活用できるPersonalHealthRecore(PHR)の導入を進めようとしており、厚生労働省が構築を進める全国医療情報プラットフォームは、医療機関で発生する情報をマイナポータルを介して利用者本人に提供するための役割を担っている。一方で、健康情報には、自治体等が行う様々な健診により発生する情報があり、これらは、保険医療に基づく情報ではないため、その取扱いを誰が行い、どのように利用者本人に提供するか課題となってきた。PMHは、自治体に代わって、これらの情報を利用者へ提供することとなるため、PHRの推進に多く寄与することが期待される。一方で、PMHに記録される情報の一部は、医療情報に近いセンシティブな情報であり、デジタル庁が一元的に収集管理することで、プライバシーやセキュリティのリスクを心配する声が上がることも想定される。また、PMHの導入により様々な情報が電子的に取り扱われることになり、多くの人にとっては利便性の高いものとなる反面、高齢者やデジタルリテラシーが低い人々にとって、利用に対するハードルが高くなる可能性がある。PMHが真価を発揮するには、全国のすべての自治体がPMHを利用し、医療機関や希望する住民がPMHに蓄積された情報を必要に応じて利活用できるようになることが必要であるため、皆が安全に安心してPMHを利用できるよう、デジタル庁、自治体、厚生労働省等のあらゆるプレーヤが連携してその普及と利便性向上に取り組むことを期待したい。<注釈>自治体・医療機関等をつなぐ情報連携システム(PublicMedicalHub:PMH)(デジタル庁),https://www.digital.go.jp/policies/health/public-medical-hub「医療DXの推進に関する工程表」(2023年6月2日医療DX推進本部決定)(内閣官房),https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/iryou_dx_suishin/pdf/suisin_kouteihyou.pdf各事務におけるPMH構成例(個人情報保護委員会提出資料)(デジタル庁),https://www.ppc.go.jp/files/pdf/231101_shiryou-1-2.pdf自治体と医療機関・薬局をつなぐ情報連携基盤(PMH:PublicMedicalHub)の構築を通じた医療費助成の効率化について(厚生労働省),https://www.mhlw.go.jp/content/12401000/001327546.pdf提供:税経システム研究所
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2025/08/29 人事労務管理
昨今労務事情あれこれ(213)
1.はじめに去る6月13日に年金制度改正法が成立しました。企業にとっては、厚生年金保険料を含む毎月の社会保険料の負担は非常に大きいものですし、従業員側も年々増加する社会保険料負担に対し、これ以上の負担増には耐えられないとの悲鳴にも近い声が上がっています。先日行われた参議院議員選挙においても、社会保険料負担のあり方が争点の一つとなったのは記憶に新しいところです。保険料を負担している現役世代の中でも特に若い従業員から見ますと、現行の年金制度は「自分たちが受給する年齢になった頃には破綻しているに違いない」または「保険料を払っても損するので、できることなら厚生年金から脱退させてほしい」などネガティブな意見が少なくないことは、残念ながら紛れもない事実です。社会構造の変化に対応するため、年金制度は定期的に改正が行われていますが、今回の改正は少子高齢化への対応、多様な働き方への対応などを背景としたものとなっており、今回の法改正を踏まえて、定年を迎えた従業員の再雇用やパート・アルバイト従業員の雇用契約の見直し、賃金や退職金制度などについての見直しなど、企業経営の面でもさまざまな対応を迫られることとなります。また、経営者自身の将来の年金受給についても、「いつから・どのように」受給するのかを改めて考える必要があるのかもしれません。今回は、企業経営にも大きな影響を与える年金法改正についてのポイントを見ていきます。2.どのような目的で、何が変わる?今回の年金制度改正は、どのような点に注目して改正が行われるのでしょうか。厚生労働省の資料によれば、「働き方や男女の差等に中立的で、ライフスタイルや家族構成等の多様化を踏まえた年金制度を構築する」「所得再分配機能の強化や私的年金制度の拡充等により高齢期における生活の安定を図る」とされており、そうした目的のもと、以下の点が改正されることとなっています。厚生年金などの被用者保険の適用拡大在職中の年金受給のルール見直し厚生年金保険等の標準報酬月額の上限の段階的引き上げ遺族年金の見直しこれらの改正によって、どのような影響や効果があるのかを考えてみると、例えば、①により、育児や介護のため短時間しか労働できない方々も社会保険制度を利用することができるようになりますし、②の改正によって高齢者層が就労を続けやすくなるとともに、企業としても、雇用形態にとらわれずに人材の確保を図ることが可能となり、労働力不足の緩和に一役買うものと見られています。また③の改正では、会社経営者など高額の賃金・報酬を受けている層について、現行の上限額を超過することにより、保険料が抑えられた結果、将来の年金額が相対的に低くなってしまうことを緩和する効果があります。では、それぞれの改正の具体的な内容はどのようになっているのでしょうか。改正のうち、企業の人事・労務管理に関連する内容について個別に見ていきます。3.年金制度改正の概要それぞれの改正の具体的な内容は以下の通りです。①短時間労働者(パート・アルバイト等)の社会保険の適用拡大【従業員数の要件・賃金額の要件の撤廃】現行制度において、要件を満たした短時間労働者(注1)を社会保険に加入させる義務があるのは、被保険者となる従業員が51名以上の事業所とされています。今回の改正では、この従業員数の要件を段階的に撤廃(注2)するとともに、賃金額の要件も撤廃されることになりました(注3)。これにより、短時間労働者は勤務先の企業規模や賃金額に関わらず社会保険に加入することとなります。【新たに社会保険の加入対象となる短時間労働者の保険料負担軽減支援】現行制度では、社会保険料の負担は労使折半が原則となっています。上記の各要件撤廃により新たに社会保険の加入対象となる短時間労働者は新たに保険料負担が発生することになりますが、これに対し、事業主の希望により、事業主の保険料負担割合を増やし、短時間労働者の保険料負担を軽減する支援策が実施されます。(期間は3年間を予定・事業主が追加負担した額は全額を国が支援)②在職中の年金受給ルールの見直し定年を迎えた後に、再雇用などにより老齢厚生年金を受給しながら就労し賃金・報酬を受ける場合、「在職老齢年金」という年金額支給調整のルールが設けられています。老齢厚生年金を受給しながら就労する場合、現行制度では賃金等と年金受給額の合計が月額51万円を超えた場合、年金支給額の一部または全部が支給停止されることになっています。このルールによる年金の支給調整を避けるため、労働日数や労働時間を短くして賃金を抑えるなど、かえって労働意欲を削いでしまう悪影響が多く見られました。こうした影響に対応し、高齢者層の就労と年金受給の両立をしやすくするため、支給調整の基準額は現行の月額51万円から62万円に引き上げが行われます。③厚生年金保険等の標準報酬月額の上限を段階的に引き上げ「標準報酬月額」とは厚生年金保険料や健康保険料を算出する際に使用する、被保険者が受け取る賃金額を一定の幅で区分した報酬月額に当てはめて決定した額のことです。現行の標準報酬月額(厚生年金)の上限額は65万円となっており、この額を上回る標準報酬月額の被保険者は、賃金額がいくら高くても65万円として保険料が計算されます。その結果、保険料が相対的に低く抑えられてしまい、それに伴って「賃金が高ければ将来の年金額受給額も多くなる」の原則から外れて、賃金額に比べて年金額が低くなってしまっています。この上限額を65万円から75万円に段階的に引き上げる(注4)ことにより、賃金が高い被保険者は、これまでよりも保険料負担が増加する可能性がある一方で、将来、年金を受給する際には現役時代の賃金に見合った年金額が受け取れるようになります。4.制度改正に伴うコスト増は避けられない今回の改正による企業経営面への影響を考えると、やはり、会社負担分の社会保険料の増加が一番に挙げられるでしょう。上記①の通り、今後は従業員数や賃金額を問わず、パート等の短時間労働者は社会保険の加入対象とされます。また、③の標準報酬月額の上限引き上げも会社負担分の社会保険料増加要因です。今回の改正内容は項目にもよりますが2026年4月から順次実施されていきます。実施までには半年余りの時間がありますので、どのように対処していくのかは早めに検討しておきたいところです。また、年金受給をしながら就労している従業員や短時間労働者に該当する従業員から、就労条件の見直しを求める声が出てくることも予想されます。また、人事制度や賃金制度をはじめとする社内制度見直しにつながる契機になるかもしれません。こうした動きに連動するコスト増は小さくない負担となるわけですが、人材の確保と定着、従業員のモチベーション向上のためにも前向きな機会と捉えて対処していきたいものです。<注釈>短時間労働者の加入要件⇒①1週間の所定労働時間が20時間以上②雇用期間が2ヶ月以上と見込まれる③賃金が月88,000円以上④学生でないこと(定時制・通信制の学生は加入対象となる)2027年10月からは36名以上、2029年10月から21名以上、2032年10月から11名以上、2035年10月から10人以下と段階実施される撤廃の時期は全国の最低賃金の引き上げ状況を見極めた上で、法律の公布から3年以内とされる賃金が上昇傾向であることを踏まえ、2026年4月に62万円に引き上げた後、2027年9月から68万円、2028年9月から71万円、2029年9月から75万円に段階的に引き上げる提供:税経システム研究所
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2025/08/28 企業経営
企業探検家 野長瀬先生の経営お悩み相談室(第20回)
毎回いろいろな企業経営者のお悩みをテーマとし、その悩みを解決する糸口を企業探検家・野長瀬裕二先生がアドバイス形式で解説していきます。筆者が見てきた様々な企業の成功例や工夫の事例、そこから見えてくる普遍的なノウハウを紹介し、各回のテーマの悩みに寄り添う情報をお伝えします。<相談内容>大手住宅メーカーの傘下で首都圏にて内装工事を営んでいる従業員数名の中小企業です。内装工事の受注量は横ばいで、近年は新事業である住宅リフォームに力を入れ、年商の半分をこちらで稼いでいます。先日、コンサルタントの先生から「自己資本比率が低い」という指摘を受けました。自己資本比率が低いと、財務面で安全性に欠けると映ることもあり、今後の経営戦略に影響してくる可能性があるとのことです。今後の経営戦略・財務戦略について考え方を教えてください。■市場の状況まず、御社の事業基盤となる住宅業界の市場について考えていきましょう。図1に示されていますが、新規住宅着工件数は、長期低落傾向にあります。リーマンショックの少し前から急落し、その後低迷し、どちらかというと持家の落ち込みの方が趨勢に影響しています。図1住宅着工件数の推移(国土交通省)御社の内装工事の事業については、現段階では、顧客である大手住宅メーカーは持家から借家まで幅広く受注していますので、一定の市場規模があります。御社は、首都圏という人口減少速度の比較的小さいエリアに立地しておられますので、市場の縮小は全国平均より緩やかなものです。徐々に後継者不足などで同業者が廃業していく中で、いかに生き残っていくかという市場と思われます。今後注意すべき市場動向として、図2に示される住宅ストック数と総世帯数のデータが参考となります。このグラフを見ると、人口減少は進んでいるのに、世帯数は増加し続けています。不動産市場においては、世帯数の増加という事実に着目することが重要です。一方空き家率も増加を続けています。不動産価値の維持という観点からは、首都圏の駅近くのマンションの需要は、世帯数が増えていることに加えて外国人投資家の需要もあって堅調であるのが現状です。図2住宅ストック数と総世帯数一方、空き家の内訳をみますと、賃貸用住宅の空き家が多いことがわかります。まず、地方圏、次いで都市圏郊外の賃貸住宅の需要が抑制されていく可能性が指摘出来るでしょう。純然たる空き家も一定数あるのですが、大都市圏の資産価値のある住宅については、リフォームして人に貸すか売却するという需要は今後もあるでしょう。その意味では、首都圏でリフォーム事業に力を入れている御社の事業戦略は妥当だと言えるでしょう。特に、日本の人口のマス層である団塊の世代が2025年に後期高齢者となったことから、今後大相続時代となることが推測されます。相続を受けた遺族が、大都市圏の資産価値のある物件については、リフォームして自らが活用するか売却、賃貸していく需要は一定のものがあると思われます。御社は現在大手住宅メーカーの内装工事の仕事を引き受けていらっしゃいますが、世帯数増加に伴う駅前マンション系の需要増については取りこぼしている面があります。それは、御社の顧客である大手住宅メーカーはマンション需要については、取りこぼしがあるからです。この市場に強い建設業者への食い込みが内装工事事業については余地が残されています。■今後の経営戦略の考え方筆者が大手製造業の経営者と「協力企業に何を求めるか」について対話すると、表1の1番目の“後継者の存在と一定水準の財務の安定性、商品やサービスの高品質”を求めるとする声が多いです。品質が良いということは、設備や従業員が揃っているということで、後継者がいて財務が良いということは長く付き合えるということです。御社はお子さんが複数いらっしゃるということで、財務的に安全で不安を抱かれない状況に持っていくことは、長期的な取引関係を持つ上で意義があります。帝国データバンクの評点がX点以上の企業としか付き合わないという経営者にもお会いしたことがあるので、情報業者とのコミュニケーションを重視し、高い評点をもらう努力をすることは有意義と思われます。表1経営戦略の体系後継者の存在と一定水準の安全性、商品サービスの高品質廃業する同業他社の需要を引き受ける戦略衰退市場から相対的に魅力的な市場へのシフトそのほか、2と3は人口が減少していく収縮市場において、生き残る戦略があるかどうかということです。■今後の財務分析の考え方御社はコンサルタントに方に自己資本比率が低いというご指摘を受けたということです。その点について、少し考えていきましょう。ご存じの通り、自己資本比率とは、図3に示されている総資本における自己資本の比率です。財務とは「調達して運用すること」ですから、資本調達において負債に依存せず自己資本の比率が高いことは安全性が高いとみなされることが多いです。御社の自己資本比率は20%を切った水準ですから、高いとは言えないでしょう。一般に、30%ぐらいあれば、そこそこで、50%以上あれば優良だとみなされます。一方、負債(流動負債+固定負債)は他人資本と呼ばれます。自己資本比率について述べる場合は、この負債の内訳がどうなっているかも見る必要があります。図3貸借対照表の構造どちらかというと固定負債(長期の負債)が流動負債(短期の負債)より多いと、安全性が高いとみなされます。金融機関が長期で貸付けるということは、何らかの理由で信頼されているということになります。表2に示される流動比率により、自己資本比率を補完することが多いです。御社の流動比率は115%ですので、これも高いとは言えません。この指標は優良企業ですと200%を超えているような場合もあります。しかし、指標である程度のことはわかるのですが、詳細には貸借対照表の中身を見ないと何とも言えません。さらに、流動負債の中身を見ると、きっちりとした経営をしているのか、だらしない経営をしているかどうかもわかります。ある中小企業の決算書を見ると、流動負債の中身は、多くが経営者の個人からの貸付であるという事例もあります。その企業は、金融機関からはあまり借りておらず経営者は「そのうち息子に会社を譲り、低い給料をもらいながら負債を返してもらう」とのことです。表2いくつかの経営指標流動比率流動資産/流動負債ROE利益/株主資本ROS利益/売上高損益分岐点比率損益分岐点/売上高経営指標には多彩なものがありますが、安全性と収益性を見て、さらに成長性を分析できれば十分です。安全性については、自己資本比率と流動比率を見るとある程度のことが分かります。厳しく見るときは流動資産の代わりに当座資産を用い、負債の中身を見るのです。成長性については横ばいということですから、残るは収益性の分析です。ROE(ReturnonEquity)は、利益を株主資本で割ったものです。中小企業の場合は、株主資本は自己資本と読み替えてもよいでしょう。ここは経営者により考え方が異なってきます。日本型優良企業においては、無借金企業の自己資本比率は不可避の負債を除くと90%近くなりますが、その状態でそれなりに高いROEを実現するのです。それに対して、負債をテコ(レバレッジ)にして、資本効率を大きくするという考えもあります。自己資本比率が高くなるとROEは低くなります。日本型優良企業の場合、ROEは10-15%程度になりますが、アップルコンピュータの場合、自己資本比率が20%以下と御社と似た水準でありながら、ROEは百数十%と高水準の決算を続けています。非上場の中小企業の場合、ROEの重要性は相対的に低いのですが、財務戦略の有無は重要です。ROS(ReturnOnSales)は、中小企業を見る時も5%以上あれば、業態にもよりますがそこそこで、10%以上あれば儲ける力があるとみなされます。損益分岐点比率は、小さいほど、売上高が落ちても赤字にならないとみなされます。厳密には、費用分解(費用の固定費と変動費への分解)の方法論がややアバウトです。そのため、「だいたい売上がX%落ちても大丈夫そうだ」という分析をします。御社の財務のディーデリジェンスをしたわけではないので、断言はできないのですが、非上場企業の場合、自己資本比率は高いに越したことはありません。30%程度あればコンサルタントの先生に指摘されずに済むかもしれません。その際に問われるのは、負債をテコにして高収益を目指すという財務戦略があるかどうか、負債の中身の筋が良いかとなります。■経営戦略と財務戦略はつながっているこうした経営戦略やビジョンを持つ経営者は、業界で信頼され、一目置かれる傾向があります。そして財務分析は、ある時点の経営状況を示すもので、人間の健康診断の数値のようなものです。例えば、身長180センチの男性が高身長かどうかについて、普通の日本人の中に入ると背が高いとみなされます。しかし、オランダに行くと平均身長にいくかいかないかです。プロバスケットのメンバーと比べると低身長です。このように、ある数値について、どのように解釈できるかが重要です。御社の場合は、取引先が求める安全性の水準をクリアし、情報業者の評点を高めるような収益力や将来ビジョンを備えることで、継続企業として次の世代も生き残る道が開けていくと思われます。提供:税経システム研究所
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2025/08/28 人事労務管理
退職に関わるトラブル回避(第11回) 内定取消し1
【サマリー】前回は、「希望退職募集」について解説いたしました。希望退職募集は、応募者が多すぎたり、予定数に全く満たないケースもあり、また会社として必要な人材が流出し、退職してもらいたい人材が残るリスクも留意する必要があることを確認いたしました。今回は、これから入社する予定の「内定者」について、入社前であれば内定を取消しできるか否かについて考察したいと思います。1.内定取消しとは我が国においては、人材の早期確保のため、在学中に採用内定通知をしたり、さらに内定を約する内々定を出すケースも多く存在します。ところが、入社までの間に予期しない事態により倒産のリスクを抱えるに至ったり、採用計画通りに進まなくなってしまった場合など、企業が内定を取消すケースがあります。このように、企業が内定者に対し出した採用内定を、その後一方的に撤回することを、一般的に「内定取消し」といっています。内定とは、法的には「始期付解約権留保付労働契約」として位置づけられ、最高裁(大日本印刷事件、電電公社近畿電通局事件)も、入社予定日を始期とし、内定から入社までの期間においては企業側に一定の解約権が認められるとしています。この契約形態が成立するためには、①内定通知以外に労働契約締結の特別な意思表示がないこと、②内定者が他の就職機会を放棄していることが重要です。複数内定を受けている場合や「滑り止め」内定などでは、労働契約の成立性が否定されることもあります。2.内定取消しの法的制約内定を出した時点で、一定の労働契約が成立するため、企業側が内定を取消すためには正当な理由が求められます。裁判所は以下のように要件を定義しています。「採用内定当時に企業が知ることができず、かつ知ることが期待できないような事実であり、それが合理的で、社会通念上相当と認められる場合に限り、内定の取消しが許容される。」このため、企業側の一方的な都合での取消しは原則として違法とされ、慎重な判断が必要です。3.内定取消しが認められる主な事由内定取消しが認められるのは、次のような事由が考えられます。卒業できなかった場合大学や専門学校などの卒業が内定条件となっている場合、卒業できなければ入社資格を満たさず、労働契約の前提が崩れるため、内定の取消しが認められます。健康上の重大な問題がある場合健康診断などにより、就業に重大な支障をきたす病気や障害が判明した場合、企業は業務遂行能力に基づき内定を取消すことができます。ただし、治療や配慮により就業可能な場合には慎重な判断が求められます。履歴書や申告内容に虚偽があった場合経歴や学歴、資格等について虚偽の申告が判明した場合は、信用性を損なう重大な背信行為とみなされ、内定取消しの合理的理由とされます。内定通知書・誓約書に記載された条件に違反した場合通知書や誓約書に記載された内定条件(例:違法行為を行わない、反社会的勢力と関係を持たない等)に違反した場合、企業の信頼を損ねる行為として取消しが可能となります。刑事事件を起こした場合内定後に刑事事件を起こした場合は、企業の社会的信用や業務運営に支障を来す恐れがあるため、内定取消しが裁判上も認められています。経営難による整理解雇に準ずる場合企業の経営状況が悪化し、やむを得ず人員削減を行う場合には、整理解雇の4要件(①人員削減の必要性、②解雇回避努力、③人選の合理性、④手続の妥当性)を満たすことで内定取消しも許容される場合があります。この際、在職社員よりも先に内定者の取消しを行うことには合理性があるとされています。したがって、経営状況の悪化に伴い人員整理が避けられない場合には、まず社内での経費削減などの対策を講じ、そのうえで内定者に対しても一定の補償案を提示し、誠実に協議を行うといった、一方的な内定取消しを避けるための努力を行うことが求められます。そうした対応を経てもなお合意が得られない場合に限って、内定の取消しが認められる余地があります。なお、整理解雇に関する判断基準の一つである「被解雇者の選定基準の合理性」に関しては、実際に雇用されている従業員ではなく、内定者に対して適用されることになります。この点について、インフォミックス事件(東京地裁判決平成9年10月31日)では、「すでに勤務している社員を対象とするのではなく、採用内定者を選定して内定を取消したとしても、特段に不合理とはいえない」と判断されています。すなわち、就労している社員を解雇するのではなく、内定者の採用を取消すという判断自体に、不合理性は認められないとされています。そもそも内定が成立していない場合労働条件の明示や合意がなく、正式な労働契約が成立していない段階(内々定など)であれば、企業は採用を見送る決定を行っても直ちに違法とはなりません。たとえば、最終面接の場で人事部長が「入社日は〇月〇日にしよう」と発言しただけでは、法的には内定が成立したとは認められず、その後に不採用としたことも違法とはされなかったケース(東京地裁判決平成23年11月16日)や、最終面接後に面接担当者が応募者へ電話で「採用したいので、翌日から出社してほしい」と伝えたものの、応募者が「翌日は出社できないので、出社可能な日を確認して連絡する」と返答し、その後何の連絡もなかった場合について、裁判所は内定が成立したとは認められないと判断したケース(東京地裁判決平成19年4月24日)があります。4.内定取消しの実務上の課題内定取消しは法的に可能な場合であっても、実務的には非常に慎重な対応が求められます。理由や対象者によっては社会的批判や訴訟リスク、企業イメージの毀損など、深刻な影響を及ぼす可能性があります。精神疾患や妊娠の場合精神疾患の場合、診断や就労可能性の予測が難しいため、内定取消しの正当性を判断するには慎重な医学的判断と法的検討が必要です。妊娠を理由とする内定取消しは、労働基準法上の労働者に該当しない内定者であっても、男女雇用機会均等法や育児介護休業法の趣旨から不当な差別的取扱いとみなされるリスクが高く、回避すべきです。内々定の取消し内々定の段階では法的に労働契約が成立していないとされるのが通例であり、取消し自体は違法とは限りません。しかし、求職者に対して労働契約の締結に強い期待を持たせていた場合には、信義則違反や不法行為責任が問われる可能性があります。実際、損害賠償が認められた判例も存在します(福岡地裁判決平成22年6月2日)。高卒者の内定取消し高卒採用は「一人一社制」が原則とされ、内定を取消した場合には翌年度以降の推薦枠が失われるなど、学校や公共職業安定所との信頼関係が損なわれます。大卒者以上に慎重な対応が求められる実務領域です。行政への報告義務と企業名公表のリスク内定取消しを複数年連続して行うなど、一定の基準を満たした場合には、企業名が厚生労働大臣により公表※される可能性があります(職業安定法施行規則17条の4)。企業の評判や採用活動への影響が大きく、安易な取消しは避けるべきです。また、新卒者の内定取消しについては、ハローワークに事前に通知することが義務付けられています(職業安定法施行規則第35条2項)。少しでも内定取り消しになるような事態を避けるためには、以下のような方策が考えられます。5.コロナ禍における内定取消しの実情新型コロナウイルスの感染拡大により、企業業績が悪化し、2020年~2021年の卒業生を中心に内定取消しが急増しました。実際、2020年3月卒業生では211件、2021年卒では136件の内定取消しが報告され、その多くがコロナ禍の影響によるものでした。ただし、経営難を理由にした内定取消しであっても、整理解雇の4要件を満たさない限り、正当とされない可能性があり、企業側の丁寧な対応が不可欠です。特に、内定者への事前説明、同意取得の努力、補償金提示といった対応が不十分な場合、違法性が問われるリスクが高まります。6.試用期間中の本採用拒否内定から入社に至る間だけでなく、入社後の試用期間中も「解雇権留保付き労働契約」と解されています。判例によれば、試用期間中の労働者を本採用しない場合、その判断は個々の契約内容に依存するものであることに注意を促しつつ、基本的には「解約権留保付き労働契約」として取り扱う考え方が確立されています。この留保解約権の行使は、通常の解雇よりも広く認められるものの、その理由として認められるのは、採用の時点では把握できなかった事実であり、そのうえで解約権の趣旨や目的に照らして、客観的に合理性があり、かつ社会常識に照らして相当と認められる場合に限られます。また、本採用を見送る(すなわち留保解約権を行使する)タイミングについては、契約書に「試用期間は6か月とし、終了後に正社員として登用する」「試用期間終了までに解雇できる」といった条項がある場合、それは「試用期間満了時に解雇できる権利がある」との趣旨であると解釈された例もあります。実務上は、期間の途中で本採用を拒否する可能性もあることを踏まえ、就業規則に「試用期間中であっても本採用を拒否することがある」といった文言を明記しておくことが望まれます。中途採用における試用期間の法的な扱いについては、新卒採用の場合と同様に考えられるものの、中途採用者の場合は、業務遂行能力や職務への適性に対する判断がより厳格となり、その結果、解約権の適用範囲も相対的に広くなります。また、試用を目的として契約期間を設定した場合においても、最高裁は「当該期間の満了により労働契約が終了するとの明確な合意があるなど、特別な事情がない限り、その契約は無期契約の試用期間として扱われる」と判断しています。実務上の留意点として、採用するかどうかに迷いがある場合に、ひとまず正社員として登用して様子を見るという対応は避けるべきです。なぜなら、試用期間中であれば本採用後よりも広い範囲で解約権の行使が認められているため、判断に迷う場合は、まず試用期間中の段階で解約権の行使を検討するのが適切です。7.まとめ内定取消しは、企業がやむを得ない事情を抱える場合であっても、法的・社会的なハードルが高く、慎重な判断が求められます。特に、契約が成立している場合は、社会通念上の相当性と合理的理由がなければ取消しは無効とされ、損害賠償請求の対象にもなり得ます。企業にとって重要なのは、取消しを回避する努力を最大限行うこと、取消しが不可避な場合は、事前の明示、説明責任の履行、誠意ある補償・対応を行うことです。これにより、トラブルや信頼毀損のリスクを最小限に抑えることができます。また、内々定の段階でも求職者に期待を抱かせる行為は慎重に行い、採用の意思決定過程を見直すことが望まれます。次回は内定取消しに関する裁判例について解説いたします。提供:税経システム研究所
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2025/07/31 人事労務管理
昨今労務事情あれこれ(212)
1.はじめに昨今、オンラインカジノをめぐる報道をよく目にするようになっています。警察庁などからも情報が発信されている通り、たとえ海外で合法的に運営されているオンラインカジノであっても、国内からこれにアクセスして金銭を賭ける行為は賭博罪や常習賭博罪に該当し、常習賭博罪とされた場合には、3年以下の拘禁刑が刑法で定められています。今年の年明け以降、タレントやスポーツ選手などがオンラインカジノを利用したことが発覚し、書類送検、一定期間の活動自粛、制裁金が課されるなどの法的、または社会的な処分を受けています。また、某放送局においては、社内調査により従業員がオンラインカジノを利用していたことが判明し、社内で厳重注意処分を受けた後も利用をやめず、その賭金も多額であったことが露見したことから、常習賭博の容疑で逮捕されるといった事態になっています。2024年に警察庁が行った調査によれば、国内におけるオンラインカジノサイトの利用経験者は推計で約336万9千人とされており、国内における年間賭額は推計1兆2千億円あまりとなっています。テレビやラジオ、ネットや動画サイトで著名人を使って宣伝し、あたかも合法であるように謳って客集めをしていたということもあり、また、スマホとクレジットカードで簡単にカジノに参加できる手軽さもあり、この調査結果を併せて見ると、仕事関係者の中にオンラインカジノを利用した人がいても不思議ではないように思えてしまいます(注1)。オンラインカジノの利用は、業務とは無関係の私生活上の犯罪行為ということになりますが、私生活上の犯罪や問題行動が、企業の業務や信用などに悪い影響を及ぼすような場合に、解雇を含めた懲戒処分を行うことはできるのでしょうか。今回は私生活上の問題行動による懲戒処分の可否について、判例などを踏まえながら考えていきます。2.雇用契約上の会社と従業員の関係とは会社と従業員は雇用契約を締結し、従業員は雇用契約の内容や就業規則に定められた服務規律などに則って労働を提供することになります。就業規則における懲戒規定においては、「会社は、企業秩序や職場規律を乱した場合に、該当する従業員を懲戒処分できる」といったような表現がよく見られますが、雇用契約や就業規則は、各従業員の私生活にまで効力が及ぶわけではなく、あくまでも就業中の行動について定めを行っているに過ぎません。したがって、従業員が業務時間外に起こした私的な問題行動を理由として、会社が直ちに懲戒処分を行うことは、私生活に過度に介入することになるため、原則としてこれは認められないとされています。例えば、電車内での痴漢行為により罰金刑を受けた従業員を諭旨解雇とした懲戒処分に対し、裁判所は「解雇権の濫用」として無効と判断しています。(東京メトロ事件H27.12.25東京地裁)(注2)では、従業員が私生活上で起こした問題行動により、会社がなんらかの損害を被った場合などに該当する従業員に対して懲戒処分を行うことはどのように評価されるのでしょうか。3.会社の社会的評価に影響がある場合は処分が可能雇用契約や就業規則は就業中の行動について定めたものであることを先述しました。その一方で、従業員は雇用契約に付随する義務として、業務中はもとより、業務外においても、会社の利益や名誉、信用を毀損することなく行動する義務を負っているものと解されています。会社としては、事業を運営していくために、名誉、信用や評判といった社会的評価を維持していくことは不可欠であり、これらに重大な影響を与える従業員の行為については、私的なものであっても、なんらかの処分を行うことは可能であると考えられています。では、どのような場合が「重大な影響を与える行為」とされるのでしょうか。この点について、裁判例では「従業員の不名誉な行為が会社の体面を著しく汚したというためには、当該行為の性質、情状のほか、会社の事業の種類・態様・規模、会社の経済界における地位、経営方針及びその従業員の会社における地位、職種等諸般の事情から総合的に判断して、会社の社会的評価に及ぼす影響が相当に重大であると客観的に評価される場合でなければならない」(要旨)とされています。(日本鋼管事件S49.3.15最高裁)端的に言えば、「懲戒処分ができるかどうかはケースバイケース」とも読み取れますが、会社も従業員も「コンプライアンス」が強く求められる令和の時代において、具体的にどのようなケースが懲戒処分に該当する行為とされるのかを考えてみましょう。4.懲戒処分の対象となる私生活上の問題行動とは?「会社の社会的評価に重大な影響を及ぼす」と考えられる私生活上の問題行動として、以下のようなものが想定されます。①犯罪とされる行為:暴行傷害、窃盗、性犯罪、飲酒運転による交通事故、賭博など犯罪行為の態様や程度が悪質かつ重大であり、犯行の経緯・動機に酌量の余地もなく、また、会社名などを含めてマスコミで実名報道されたような場合は、会社に対して有形無形のダメージを与えたものとして、懲戒処分を行っても問題ないものと考えられます。②SNS他ネットにおける不適切な投稿会社を強く誹謗中傷する投稿や企業秘密に該当する内容を投稿したような場合には一定の懲戒処分が認められる可能性が高いのですが、このようなケース以外でも、個人のアカウントにおいて、業務時間外に行われた投稿が、社会常識に照らして不適切な内容だとして「炎上」してしまうことがあります。アカウントが本名ではなくハンドルネーム(ネット上でのニックネーム)であったとしても、最近では、本名や住所、勤務先をはじめとした個人情報があっという間に特定され、ネット上に晒されてしまうことが珍しくありません。こうなると、投稿内容が業務に無関係な内容だったとしても、会社に苦情の電話やメールが殺到し業務に支障をきたすばかりでなく、いわゆるクチコミサイトなどに会社の評判として虚実入り交じった内容が書き込まれるなど、会社の名誉や信用が大きく毀損されることになります。このような場合は、その質や程度などにより会社の行う懲戒処分が認められやすくなります。③社内の不倫倫理的な問題はありますが、単に不倫が行われているだけでは懲戒処分は困難であると言わざるを得ませんが、事情により判断は異なります。例えば、同じ部署内で不倫が発覚して部署内の雰囲気が悪くなるなどにより業務遂行に著しい影響を及ぼした場合や、職場風紀・秩序を乱し正常な企業運営を阻害した場合のほか、男女間の関係を厳しく律することが相応しい職場(例:バス運転手とバスガイドなど)における不倫行為などで他の従業員に不安と動揺を与えたようなケースでは懲戒処分を有効とした判例があります。(長野電鉄事件S41.7.30東京高裁)5.問題行動と懲戒処分の内容とのバランスは?懲戒処分することが問題ないと判断されたケースでも、問題行動と処分の内容のバランスも考えなければなりません。一言で「懲戒処分」と言っても、就業規則においては譴責から懲戒解雇まで様々な処分の態様が定められているはずです。問題行動の内容や会社が受けた損害と照らして、バランスを欠いた不当に重い処分を行ったような場合、その懲戒処分が無効と判断されることがあるため、処分内容を検討する際には慎重を期することが必要です。会社側からすれば、「私生活上の問題行為発覚⇒即懲戒処分」と考えがちですが、その問題行為が会社にどれだけの損害や悪い影響を及ぼしているのかについてまずは考えなければなりません。問題行動を起こした従業員は責められてもやむを得ないとはいえ、処分を考える際は一旦冷静になり客観的な視点で判断する必要があります。<注釈>警察庁オンラインカジノの実態把握のための調査研究結果(概要)https://www.npa.go.jp/bureau/safetylife/hoan/onlinecasino/jittaichosa.png一方で類似の痴漢事案において、有罪判決を受けたことを理由とした懲戒解雇を有効とした判例もある(小田急電鉄事件H15.12.11東京高裁)提供:税経システム研究所
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2025/07/29 人事労務管理
退職に関わるトラブル回避(第10回) 整理解雇3
【サマリー】前回は、「整理解雇」に関する重要判例と、コロナ禍での「整理解雇」の判例について解説いたしました。コロナ禍という未曽有の事態においても、「整理解雇の4要件」を厳しく求められることを確認いたしました。今回は、我が国における「整理解雇」の手段の1つである、「希望退職募集」について解説したいと思います。1.希望退職募集と早期退職優遇制度希望退職募集とは、自主的な退職を促進するために、退職金の上積などの特別利益を提示して、合意退職を実現する経営施策です。日本では、解雇権濫用法理により解雇が制限されているため、人員削減が必要な場合でも、解雇時に生じる可能性がある係争を回避するため、とくに大企業・中堅規模企業では希望退職募集の手法が定着しています。類似するものとして、早期退職優遇制度があります。これは高齢化対策の一環として、定年を迎える前に第2の人生に踏み出す者に対して退職金に優遇措置を講じる制度です。希望退職募集との比較では、希望退職募集が臨時的施策であるのに対し、早期退職優遇制度は恒常的な制度とされる傾向がみられます。希望退職募集は、労働者の退職の意思表示(申込み)を誘引する事実行為であり、退職を強要するものではありません。したがって、使用者は希望退職をある程度自由に募集できます。一般的に、希望退職募集の際、①募集時期、②募集人員、③募集対象者、④退職上積金の有無――などが提示され、その条件や方法なども、使用者が自由に決定できるものとなっています。また、希望退職募集の対象者を制限することも原則として可能です。たとえば、募集対象を一定年齢以上に制限したり、地方工場の従業員のみを対象にしたりすることも法的に問題ありません。労働者はその意思に基づき、自己都合で自由に退職できるため、労働者の権利が制限されないからです。退職金の加算などの好条件を提示して希望退職を募ると、有能な人材が流出してしまう可能性がある一方で、退職してほしい人材が残り、経営の維持が困難となる事態が生じることがあります。この問題を避けるため、多くの場合は、希望退職募集の際に「退職上積金の支給を会社が承認した者に限る」とする会社承認規定を設ける手法が採られています。このような定めをすることも、労働者が本来有する自己都合での退職の権利は制限されず、問題はないとされています。会社承認規定は、退職金を加算する早期退職優遇制度、または希望退職募集と一体にして運用することにより、合意退職という形で労働者の意思を尊重できます。使用者の業務上の必要性にも応え、さらには解雇に伴う労使紛争の回避も可能とするものとなり、重要な意義を有しています。会社承認規定に基づいて使用者が承認するか否かは、人事政策目的などの合理的な観点から、使用者の広い裁量が認められるべきです。仮にこれを制約するとしても、使用者の不承認が信義に反するような特段の事情が存するなど、極めて例外的な場合に限られます。会社承認規定の実務上のポイントは、従業員へ事前に「退職上積金の支給を受けられるのは、使用者が承認した者だけであり、承認しない者には支給しない」と周知することです。そうしないと、使用者が対象外とする従業員が応募した場合、退職上積金の支給を受けられず、退職する意思があることのみ使用者に知られ、以後在籍しづらくなるという問題が生じてしまいます。実務上さらに重要なのは、会社承認規定を設けるとともに、有能な従業員に「残ってほしい。応募して来ても承認しない」と知らせることです。そうすれば、不承認により在籍しづらくなる事態を避け、有能な人材の流出の防止につながります。会社承認規定を設けない場合は、有能な人材へ事前に「残ってほしい。会社の中心になると考えている。期待している」などと述べるしか方法がありません。承認権者は、人事部長や社長など、使用者の意図を十分理解して判断できる者に限定しておくと良いでしょう。承認権者には使用者の意図を十分に伝達し、情に流されて対象者以外を承認してしまうような事態は避ける必要があります。希望退職募集の際、従業員は会社に必要とされているか、応募するか否かによるメリット、デメリットなどに悩むので、使用者は、従業員が応募を判断する際に必要な情報を十分提供しなければなりません。2.重要判例1「大手ガラス製造会社事件東京地裁平21・8・24判決」大手ガラス製造会社(以下、会社)が実施した早期退職優遇制度に関連して、同制度の適用除外とされた元社員が、会社に対して優遇措置を受ける権利があるとして提訴した事案。<事件の概要>原告は、長年同社に勤務し、一定の役職に就いていましたが、会社の経営合理化策の一環として早期退職制度(転進支援制度)の募集がなされた際、当初の条件に基づいて退職の意思を示し、退職願を提出しました。ところが、退職願提出後に会社が制度内容を一部改訂し、新たに退職金に約5,000万円を加算する「早期退職者優遇制度」を導入しました。原告は、制度変更後の優遇措置を受けられるべきであると主張し、これを認めなかった会社に対して退職金の増額分の支払いを求めて訴訟を提起しました。<判決のポイント>第一に、裁判所は、原告と会社の間で当初の早期退職制度(転進支援制度)に基づく「合意退職」がすでに成立していたと認定しました。すなわち、退職願の提出と、会社からの承認・退職条件の通知をもって、両者間の合意退職が成立していたという見解です。第二に、裁判所は、原告が主張するような「新制度(早期退職者優遇制度)の周知義務」については、法的根拠がないと判断しました。すでに合意退職が成立した後で制度が新設された場合、その適用対象となるか否かは企業側の裁量に委ねられ、会社が特に原告に対して新制度の内容を知らせる義務を負うとはいえないとしました。第三に、早期退職優遇制度の支給対象者の選定や支給額の決定は、企業の人事政策に関する広範な裁量に属する事項であるとし、その裁量行使に社会通念上著しい逸脱や濫用がない限り違法とはならないという、いわゆる「裁量権法理」を適用しました。その結果、会社の判断は信義則違反にもあたらず、原告の請求は棄却されました。<まとめ>本判例は、企業が実施する早期退職優遇制度において、制度の設計・運用がどこまで企業の裁量に委ねられるか、また制度変更時における適用の可否や情報提供の義務の有無などについて、重要な判断を示したものです。まず、退職に関する合意は、労働者の申込み(退職願提出)と企業の承諾(条件提示や承認)によって成立するものであり、その後に制度内容が変更されたとしても、すでに成立した合意に遡って適用されるわけではないことが確認されました。次に、企業が新たな優遇制度を導入した場合、それをすでに退職が決定した者に遡及的に適用する義務はなく、周知義務や公平配慮義務といったものが当然に発生するわけではない点は、制度設計の実務上非常に重要です。さらに、早期退職優遇制度や転進支援金制度の支給対象者の選定は、企業の合理的裁量の範囲内で決定できるという考えが明確に示されたことで、今後の人員整理施策や退職勧奨の設計においても企業側が注意すべき枠組みが確認されたといえます。この判例は、労働契約における合意解約の成立時期や、優遇制度適用の境界線に関する重要な実務指針を与えるもので、今後の制度運用においても参考とすべき裁判例といえるでしょう。3.重要判例2「外資系ソフトウエア会社事件東京地裁平15・11・18判決」会社が実施した早期退職制度に対し、従業員が応募したものの、会社による承認前に自己都合で退職したため、特別退職金の支給が行われなかった件について、当該従業員は、制度の他の適用者と同様の扱いを求めて訴えを提起した事件。<事件の概要>会社は平成14年12月19日、早期退職優遇制度(以下「本制度」)を発表しました。本制度では、退職を希望する従業員に対して、通常よりも有利な特別退職金などが支給される内容であり、従業員にとって魅力ある条件が提示されていました。会社が発行した文書には、本制度の利用にあたっては、対象となる従業員がまず応募し、その後、会社が応募内容を確認した上で承認するか否かを決定するという手続きが明示されていました。さらに、本制度を利用せずに自己都合で退職する場合には、離職票に記載される退職理由は「会社都合」ではなく「自己都合」となる旨の記載もありました。原告は、平成14年11月19日頃、上司に対し、複数の企業から転職の誘いを受けていることを伝えました。これに対し上司は、原告が当時システム統合プロジェクトにおいて購買部門の日本側責任者を務めていた点に着目し、その経験は今後社内でのコンサルタント業務への転身に活かせるとして、原告を会社に引き留めました。そして本制度が公表された平成14年12月19日、上司は総務部全体を対象に説明会を開き、制度の概要を説明し、その後、原告と個別に面談を行って会社への残留を強く促しました。さらに12月24日には、2回目の個別面談を実施し、再び慰留の意向を示した上で、会社にとって重要な人材は原則として制度の対象外であると告げました。翌年の平成15年1月7日、3回目の面談が行われ、原告が退職の意思を明確に示したうえで本制度の適用を求めたのに対し、上司は原告が特別退職金の対象にはならないことを伝えました。それでも原告は、1月8日付で正式に本制度への応募を行いましたが、1月17日、会社から本制度の適用対象外である旨の通知を受けました。<判決のポイント>本件で争点となっている特別退職金付きの早期退職制度は、原告と被告との間の既存の雇用契約とは別個の契約の成立が問題となるものです。そのため、原告の請求を認めるには、当該早期退職制度(以下「本プログラム」)の適用を前提とした雇用契約の解約について、原告と被告の間で合意が成立している必要があります。しかしながら、本プログラムにおいては、従業員からの応募に対し、会社側がその適用の可否を判断する権限を留保していると解されます。したがって、従業員からの応募は、あくまでも雇用契約終了に向けた「申込み」にとどまり、会社がこれを承認してはじめて「承諾」となり、契約として成立する構造になっていました。このような前提からすれば、本件において原告と被告の間で、プログラムに基づく雇用契約終了の合意が成立しているとは認められません。これに対し原告は、他の適用者との公平性や信義則の観点から、被告には原告にも本プログラムを適用すべき義務があると主張しました。しかしながら、仮に平等取扱いや信義則を考慮したとしても、それだけで会社に対して本プログラムの申込みを承諾する法的義務が生じるとは言い難いと、原告の主張を退けました。さらに仮に原告の主張を前提としても、原告が信義則違反の根拠とする点──すなわち、他の従業員にはプログラム適用を積極的に勧めたのに、原告には適用を拒否したことが整理解雇を回避するための形式的手段(潜脱)であるという主張──についても、仮にそれが真実であれば、制度そのものの有効性が否定される可能性があり、かえって原告にも本プログラムを適用すべき法的根拠とはならないとしました。<まとめ>名称は企業によって異なるものの、早期退職制度を導入し、退職希望者に対して退職金の上乗せなどの優遇措置を講じる企業は少なくありません。ただし、こうした制度には、企業側が一定の適用条件を設けているのが一般的です。そのため、制度の適用を受けられなかった元従業員が企業を相手に訴訟を起こすケースも多く見られます。裁判例では、制度上定められた条件を満たしていない場合には、優遇措置を受ける権利は認められないとする判断が多数を占めています。4.実際の事例(コロナ禍における整理解雇)都内に貸しビル数件とビジネスホテルを4件運営しているA社が、コロナ禍でホテル部門の売上が85%減少したことに加え、以前から老朽化が懸念されていたホテルがあったため、そのホテルを売却することとして、ホテル部門の人員削減をすることになりました。そこで筆者に「人員再編計画(リストラ)」の策定の依頼があり、慎重に打合せを重ねた結果、ホテル部門120名の1/3となる40名を最終的に整理解雇することとし、まずは希望退職者の募集を実施することになりました(図表1参照)。図表1<人員再編計画>ホテル1棟売却に伴う人員再編計画を書面と説明会にてホテル部門の全従業員に周知しました。募集対象者は、公平性を保つため、売却するホテルに勤務している従業員のみならず、ホテル部門の本社管理部を含めた全ての従業員としました。また、万が一退職されては困る従業員が応募した場合に備えて、会社承認規定を設け、念のため事前に個別に慰留しておくことなど、慎重に準備をしたうえで募集要項に従って募集を開始しました。予定人員に達しない場合、最終的には解雇をも視野に入れることも周知しました。希望退職者の募集要項は次の通りです。結果は、当初の予想に反して募集開始から2日間で募集人数を上回る47名の応募があり、即日打ち切りとなりました。募集人数に及ばずに退職勧奨、さらには解雇ともなれば訴訟に発展しかねない事案だったがゆえに、「整理解雇」としては大成功だったと言えるかもしれませんが、応募人数通りの退職者を認めるとなると業務に支障を来すのは必至でした。そのため、数名のベテラン従業員に対して残留するように説得し、最終的に42名の退職希望者を承認することとなりました。コロナ禍で先行きが不透明な時期であったことも影響して、他の業種へ職種転換を希望する者が多かったのも、予想以上に応募人数が多かった要因と考えられます。このように、希望退職募集は、会社の思惑通りに行く場合ばかりではなく、今回のケースのように予定数を大幅に上回る応募者があったり、逆に、予定数に満たないケースもあります。また前述の通り、会社として必要な人材が流出し、退職してもらいたい人材が残るリスクがある点も留意しておかなければなりません。提供:税経システム研究所
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