経営研究レポート
MJS税経システム研究所・経営システム研究会の顧問・客員研究員による中小・中堅企業の生産性向上、事業活性化など、経営に関する多彩な各種研究リポートを掲載しています。
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2026/10/30 企業経営
企業探検家 野長瀬先生の経営お悩み相談室(第27回)
毎回いろいろな企業経営者のお悩みをテーマとし、その悩みを解決する糸口を企業探検家・野長瀬裕二先生がアドバイス形式で解説していきます。筆者が見てきた様々な企業の成功例や工夫の事例、そこから見えてくる普遍的なノウハウを紹介し、各回のテーマの悩みに寄り添う情報をお伝えします。<相談内容>自動車や電機等の部品に塗装を行う中小製造企業です。自動車部品の自動塗装ラインも保有し、複数の固定客からの売上が主力です。一方、リーマンショックの頃から顧客メーカーの海外移転が進み、売上高が伸び悩んでいます。財務内容は銀行にも堅実だと言われていますが、今後の事業戦略に悩んでいます。どのような選択肢があるでしょうか。■成熟市場の閉そく感塗装分野は、部品の塗装と建設の塗装で仕事の内容が異なります。部品の塗装についても、自動車等の工場で組み込まれる部品の塗装、ディーラーオプション部品の塗装、修理工場における塗装で商習慣が異なっています。生産量によっても、市場の状況が異なります。自動ラインで連続生産するような仕事と、ロット生産/個別生産のような多品種少量の仕事とでも、顧客との受注交渉の難易度が異なります。一方、この分野の中小企業を訪問すると家業として事業承継してきた事例がほとんどです。塗装とメッキの分野ではこの傾向が強く見られます。なぜ、家業となるかといえば、新規創業が難しいからです。塗装機器に設備投資が必要となること、熟練職人の確保が難しいこと、顧客との取引関係をはじめるための参入障壁が高いこと。図14輪自動車の生産量推移(日本自動車工業会統計)これらの諸事情により、新規創業企業の参入は困難で、固定客を保有する既存企業同士のすみ分けや競争により業界構造が決まっています。国内で塗装部品を買う顧客としては自動車産業が代表的なものです。しかし、図1に示されている通り、トレンドラインを見る限り、国内の自動車生産における需要は長期低落傾向にあります。この成熟市場で生き抜くことには閉そく感がある中で、なすべきことを全てやりきるタフさが求められます。正しい方向に長期的に歩き続ける企業のみ生き残ることができる状況と言えます。図2は国内自動車保有台数の推移ですが、この図を理解するには、輸出と国内販売、海外からの輸入、中古車市場等を合わせて考えていくことが重要です。保有台数は横ばいですが維持コストの安い軽自動車は増えています。また、中古車販売市場が存在感を増しています。新車販売は伸び悩みといったところでしょう。図24輪自動車の保有台数推移(日本自動車工業会統計)現在、我が国では、自動車保有率の高い地方圏の人口減少が進んでおり、将来的に自動車保有台数は伸びることはないでしょう。輸出市場についても、中国市場は特殊性があり、北米・欧州等は現地生産が進みます。以上のことより、自動車部品塗装の国内市場は、成熟していることは確かです。また、かつて塗装需要の大きかった電機・電子産業の生産金額は、日本電機工業会の統計によれば2000年に33兆円ありましたが、2023年に14兆円と半減しています。特に家電製品のように価格帯が安いものについては、日本企業の海外シフトや撤退が続いていて縮小しています。筆者の知る限り、昔は主に特定の家電メーカーと付き合っていた実力派中小企業のうち、自動車産業にシフトして生き残っている事例も目立ちます。このような事業環境下で、自動車・電機産業向けの部品塗装をメインに事業展開されてきた御社です。今後の事業戦略に悩まれているのはよくわかります。<進むべき道の探索を>ここまで述べたように、御社のこれまで取引してこられた自動車・電機の顧客の需要には、一部の例外を除くと成長性が不足しています。場合によっては顧客の事業リストラチャリングで需要が減少するリスクもあります。何かを始めるリスクもありますが、何も取り組まないリスクが大きくなりつつある状況です。このような状況では、御社のリスク許容度を把握した上で、新たなチャレンジを「発見的に」行っていく必要があります。正しい道を、ヒューリスティック(発見的)に見出していくための試行錯誤の時間が必要です。表1御社の経営戦略の体系1.ニッチ需要の確保・多品種少量需要の確保・付加機能の技術強化・営業方法の改革2.撤退事業者の需要の取り込み・同業者との連携・顧客企業との連携3.周辺需要への拡張・M&A・新事業開発事業戦略の体系は表1に示される通り、1.ニッチ需要の確保、2.撤退事業者の需要の取り込み、3.周辺需要への拡張、の3パターンに類型化されます。まず、御社はこれまで中量生産の需要を顧客企業から任され、自動塗装ラインを稼働させることで一定の収益を確保してきました。こうした仕事は、ある程度の売上高は得られますが、顧客企業からのコストダウン要請も強くなります。営業方法を見直し、1の方法、即ち多品種少量生産であり、かつ一定の利益率が見込まれる受注を呼び込むことがオーソドックな方法です。口コミで多くの企業から注文が来るような状況を作り出すには、「付加機能の技術強化」も重要となります。付加機能の強化には、表2に示されるa~cの選択肢があります。防錆等の表面保護技術に重点を置くか、デザイン向上に寄与する塗装に注力するか、その他の機能の技術を磨くかです。筆者と交流のある中小塗装企業では、抗菌性を付加し、医療機器メーカー等に提案しています。付加機能の強化に際して留意すべきは、コストベネフィットになります。プラスチックや金属に塗装すると、その分のコストアップにつながります。そのコストアップ分を上回る利益(ベネフィット)があれば、その提案は顧客に受け入れられることとなります。機能はアップするがコストもアップするという提案の場合、何かを得ると別の何かを失うトレードオフの状況となりがちです。事業企画を間違えると顧客の説得が難しい場合が出てきます。機能アップが「必要不可欠」であるという技術や商品を開発することが重要です。表2塗装による付加機能の体系ニッチ市場を確保するには、スプレー塗装、静電塗装、電着塗装、粉体塗装、浸漬塗装等の各種塗装技術について、産学連携を通じて強化していく方法も有力です。こうした泥臭い分野の技術に関心を持つ研究者は限られているので、支援機関の力を借りるなどして適切な研究者とのマッチングに挑戦していくことが必要です。技術強化していく際には、加工方法のみならず、材料(樹脂、顔料、添加剤等)の見直しを泥臭く行っていくことが求められます。こうした努力を行い、売上高のうち、試作品、個別受注生産品、ディーラーオプション品等の多品種少量生産比率を高めていくことが経営の安定性向上や収益確保につながります。表1の2に示される撤退事業者の需要を引き受ける方法も、成熟市場では重要です。今後、後継者のいない塗装業の廃業、顧客である大企業の塗装からの撤退があった時に、その需要の受け皿となるのです。後継者がおり、財務内容の堅実な御社は事業譲渡の受け皿となる条件を備えておりますので、業界内の情報収集を積極的に行っていくことで事業拡大につながる可能性があります。最後に表1の3の周辺需要への拡張ですが、M&Aか独自の新事業開発かの選択肢があります。人的経営資源に限りのある中小企業にとって、塗装業と関連性のある周辺需要をとらえることが出来たなら発展につながります。近年、メッキ業は参入障壁が高くなりつつあり、こうした表面処理の他技術を吸収するといった方法も面白いです。ある程度面積の広い工場を持つ企業を吸収し、バスや商用車のラッピングを行うという事業で成功している中小企業もあります。中小企業の連携促進政策を活用し、連携チームを構築して共同開発する方法もあります。筆者と交流のある中小企業のうち、中小企業庁の新連携政策を活用し、売れる商品にまで仕上げた新事業事例を複数見ています。御社としては、まずリスク許容度を理解し、表1の中で出来るところから取り組み、将来につながる事業を見出していく。そうした努力を始める時期に来ているように思われます。提供:税経システム研究所
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2026/10/30 人事労務管理
昨今労務事情あれこれ(227)
1.はじめに労働時間や賃金などの労働条件や服務規律、懲戒処分など、企業で働く従業員に適用される各種の決まりごとを明文化した就業規則は、企業と従業員の双方にとっての「職場のルールブック」です。労働基準法において、「従業員数が常時10人以上の事業所は就業規則を作成し、所轄の労働基準監督署に届出をしなければならない。」(第89条)とされており、届出を怠った場合には罰則(30万円以下の罰金)が設けられています(第120条)。近年の労使間トラブルの増加を背景に、就業規則を作成・整備し、定期的に内容をアップデートしていくことの大切さを痛感している経営者の方も多いのではないかと思います。就業規則を新たに作成した後の所轄労働基準監督署への届出と合わせて、もう一つ必ず行わなければならないこととして「就業規則の従業員への周知」があります。この周知を正しく行っていない、あるいは周知そのものを行っていない事業所は意外と多いようです。就業規則は従業員に正しく「周知」が行われることで、はじめて法的効力を持つものとされており、実務上、労働基準監督署への届出と同等またはそれ以上に重要と言っても過言ではありません。では「正しい就業規則の周知」とはどのようなものなのでしょうか。具体的な周知の方法や周知不足が原因となるトラブルについて解説していきます。2.就業規則の作成と届出義務の対象は?従業員数が常時10人以上の事業所は就業規則の作成と届出の義務があることは先述しました。この「従業員が常時10人以上」とはどのような従業員がカウントされることとなるのでしょうか。就業規則の作成・届出義務の有無を判断する際は、正社員やパート・アルバイトといった雇用形態や労働時間等には関係なく、その事業所に所属する従業員数で判定します。この従業員数が常時10人以上である場合、就業規則の作成・届出義務が生じます。(ただし、派遣先における派遣社員や有期雇用労働者、その会社の役員は従業員数に含めない)また、従業員のカウントは「事業所単位」で行います。本社(本店)のほかに支店や営業所などがある場合、それぞれの拠点において「従業員数が常時10人以上か」により判断されることになり、各拠点に就業規則の作成・届出の義務が課されることになります。なお、「従業員数が常時10人以上」の条件を満たさない事業所については、法令上、就業規則の作成義務および労働基準監督署への届出義務はありません。しかし、就業規則が職場のルールブックであり、労使関係の各種の拠り所となるものであることを考えると、できる限り作成しておくことがベターであると考えます。3.就業規則の周知も義務作成・届出を済ませたらそれで終わり…ということではなく、作成・届出後の就業規則は従業員に周知することが法令で義務付けられています(労働基準法第106条)。さらに、周知を怠った場合は30万円以下の罰金が科されることとされています。法令上の規定は別として、どんなに素晴らしい内容の就業規則を作成しても、従業員がその内容を把握していなければ意味がありません。では、その作成した就業規則は、その後どのように社内で取り扱われているでしょうか。監督署の受付印が押された就業規則の原本は非常に重要な書面であることは疑いようもありません。そのため、「大事なものだから代表者の机の中や社内の金庫に大切に保管されている」などという話は普通に耳にします。また、従業員側からも「就業規則があるのは知っているけど、内容はよく知らないし、そもそも就業規則そのものを見たことがない」といった声を聞くことがありますが、このような事業所は正に「周知」を適切に行っていないと言わざるを得ません。「周知」とは「従業員が就業規則を見ようと思ったら、いつでも見ることができる状態とすること」とされています。就業規則の周知について、労働基準法では「就業規則を常時各作業場の見やすい場所へ掲示または備え付ける、書面を交付すること等により労働者に周知させなければならない」(要旨)(第106条)と定めています。では、具体的にどのような方法によって周知すれば、事業所は周知義務を果たしたことになるのでしょうか。4.どのようにすれば適切に「周知」したことになるのか就業規則の周知方法は法令において具体的に次の方法が例示されています(労働基準法施行規則第52条)。常時各事業場の見やすい場所に掲示し、または備え付ける例)休憩室の本棚など従業員が誰でも出入りできる場所に冊子を保管する事業所内の誰でも出入りできる場所に掲示する書面を従業員に交付する例)就業規則のコピーなどを全従業員に交付するパソコンなどでデジタル化し、従業員がいつでも閲覧できるようにする例)就業規則をデジタル化(PDFなど)してPCなどで社内ネットにアクセスすればいつでも閲覧できるようにしておく一方、以下のような方法では周知したことにならないので注意が必要です。口頭の説明のみ例)説明会を開き全従業員に口頭で説明した一部の従業員のみに周知した例)管理職のみまたは希望した従業員に限り書面で周知したでは、適切な方法による周知を怠ってしまった場合、会社にはどのようなリスクがあるのでしょうか5.就業規則を適切に周知していない場合のリスクとは法令に定められた適切な方法等により、従業員に対し就業規則の周知が行われていなかった場合、先述の通り、罰則が規定されています。また、労働基準監督官による是正勧告や指導の対象となります。さらに、会社側が就業規則に規定されてい内容に基づいて何らかの措置を行ったことに対し、労使間で紛争に至った場合に、「周知されていない就業規則は無効」とされてしまう点は大きなリスクであると言えるでしょう。就業規則の周知の有無が大きな争点となった事例として、顧客への暴言や上司への反抗的な態度が酷いなど勤務態度に問題があり、職場秩序を乱したとして、この従業員を就業規則の懲戒事由に基づき懲戒解雇したところ、労使間で紛争となった事案があります。この裁判における判決では、「就業規則が従業員に周知されていなかったことから懲戒解雇は認められない」とされました(フジ興産事件H15.10最高裁判決)。この判決では、「就業規則が効力を生じるためには、その内容を、適用を受ける事業場の労働者に周知させる手続きがとられていることを要する」(要旨)として、従業員に適切に周知されていない就業規則は無効であるとしています。この判例からも、周知がいかに重要かつ不可欠なものであるかがご理解いただけると思います。せっかく作った就業規則も、最後のツメとも言える「周知」が行われなければなんの意味も持たないこととなってしまいます。「仏作って魂入れず」となってしまわないようにしたいものです。提供:税経システム研究所
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2026/10/30 人事労務管理
退職に関わるトラブル回避(第18回) 「就労意思の喪失」
【サマリー】解雇をめぐる訴訟では、解雇に客観的合理性・社会的相当性があるかが中心的な争点となることは、何度も述べてきました。解雇が無効と判断されれば、労働契約は終了していなかったことになるため、労働者は雇用契約上の地位確認と、解雇後の賃金、いわゆるバックペイを請求するのが通常です。しかし近時の裁判例では、解雇の有効・無効とは別に、労働者が「その会社で働く意思をいつまで有していたのか」という就労意思の問題が、バックペイの範囲や地位確認請求の成否に影響する場面がみられます。解雇が無効であっても、労働者が途中で就労意思を失ったと認定されれば、その後の賃金請求が否定される可能性があります。本レポートでは、双龍産業事件(東京地判令和7年9月11日)とリバーサイド事件(東京高判令和4年7月7日)を取り上げ、事案の概要と判決のポイントを時系列とともに確認しながら、「就労意思の喪失」という考え方の内容と、企業が解雇紛争で留意すべき実務上のポイントを整理します。1.解雇無効とバックペイの基本構造労働契約法16条は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない解雇を権利濫用として無効としています。解雇が無効であれば、法的には雇用契約は継続していたことになります。そこで労働者は、解雇後も働く意思と能力があったのに、使用者が就労を拒絶したため働けなかったとして、民法536条2項を根拠に賃金を請求することになります。●解雇無効時の基本的な整理解雇が無効であること労働者に就労の意思・能力があること使用者の責めに帰すべき事由により就労できなかったこと→これらが認められると、原則としてバックペイが問題となるこのうち近時あらためて注目されているのが②の「就労意思」です。解雇時には復職意思があっても、その後の事情によって意思を失うことがあります。反対に、当初は就労意思が明確でなくても、その後に復職要求を具体化することもあります。したがって、就労意思は訴訟提起時の一時点だけでなく、解雇後の経過を時系列で捉える必要があります。2.「就労意思の喪失」とは何か就労意思とは、単に「雇用契約が存在していると主張する意思」ではなく、現実に当該使用者の下で労務を提供する意思を意味します。解雇無効を争っていること自体は就労意思を推認させる事情ですが、訴訟や労働委員会の申立てをしているからといって、当然に全期間について就労意思が認められるわけではありません。また、解雇後に他社へ再就職したことだけで、直ちに元の会社への就労意思が失われたと判断されるものでもありません。解雇を争う間も生活を維持する必要がある以上、再就職はむしろ通常の行動です。重要なのは、再就職後も元の会社への復職を求めているか、会社から復職に関する働きかけがあった際にどう反応したか、その後どの程度の期間連絡をしていないかなど、客観的行動の積み重ねです。3.就労意思を判断する際にみられる事情裁判例をみると、就労意思の有無は、一つの事実だけで機械的に判断されるのではなく、解雇後の経過を総合して判断されています。特に次の事情は重要です。<就労意思を判断する主な事情>解雇撤回や復職を継続して求めていたか労働組合、労働委員会、訴訟等で復職をどのように求めていたか会社から復職案や就労意思の確認があった際の回答内容再就職の時期、勤務状況、定着の程度長期間、会社に復職を求める連絡をしていない期間があるか復職条件について交渉しようとする行動があったかこの点で重要なのは、「退職意思」と「就労意思の喪失」は必ずしも同じではないことです。退職の明確な意思表示がなく、雇用契約自体は存続している場合でも、ある期間について働く意思がなかったと評価されれば、その期間の賃金請求が認められないことがあります。反対に、過去に欠勤等が続いていたとしても、後に復職意思を明確に示せば、その時点以降は就労意思が認められる可能性があります。この「時間的な変化」を理解するうえで、次に取り上げる双龍産業事件とリバーサイド事件は対照的で、実務上非常に参考になります。4.重要判例1「双龍産業事件東京地裁令7・9・11判決」取引先とのトラブル等を理由に普通解雇された従業員が、再就職から1年半以上経過した後に、解雇の無効、地位確認、バックペイ等を求めました。東京地裁は、解雇は無効としつつ、労働組合が労働委員会への救済申立てを取下げた翌日以降は就労意思を失っていたと認定し、賃金請求はそれまでの期間に限って認め、地位確認請求は認めませんでした。<事案の概要>Y社に勤務していたXは、取引先とのトラブル等を理由に令和3年8月31日付で普通解雇されました。解雇に至る過程では、退職勧奨を拒否したXに休業命令が発令され、団体交渉中に組合への予告なくX本人へ解雇通知書が送付されていました。Xは、解雇無効を主張し、地位確認、賞与を含むバックペイ、不法行為に基づく慰謝料等を求めて提訴しました。解雇後、Xは遅くとも令和4年3月頃には他社で稼働していました。労働組合は労働委員会に救済申立てを行い、Y社は「職場復帰検討書」を提出しましたが、組合はこれに応答しないまま申立てを取下げ、Xもその後Y社に一切連絡をしないまま、令和5年10月に本件訴訟を提起しました。【図表1】双龍産業事件の時系列<判決のポイント>裁判所は、Y社が主張する問題行動の多くは具体的な事実が認められず、配置転換や懲戒処分により反省の機会を与えることなく改善の余地がないと早計に判断したとして、本件解雇を解雇権の濫用として無効と判断しました。一方、就労意思については、「職場復帰検討書」に何ら応答しないまま救済申立てを取下げたことは、Y社の否定的な姿勢が明らかになったことでXが就労意思を喪失したためとみるのが相当であるとし、その後1年半以上連絡がなく、復職意思があれば直ちに提訴したはずであることも踏まえ、取下げの翌日である令和4年4月12日に就労意思を喪失したと認定しました。なお、他社で稼働を開始した時点で喪失したとまでは認めていません。この結果、地位確認は認められず、賃金は同月11日までの限度で、中間収入として4割を控除した額が認容されました。また、解雇後の賞与はY社の決定がなく具体的な請求権が発生していないとして否定した一方、退職に追い込む意図がうかがわれる休業命令の発令や、団体交渉中に組合へ予告なく本人へ解雇通知書を送付したことは不法行為に当たるとして、慰謝料30万円と弁護士費用3万円の支払いを命じました。<学ぶべきポイント>本件は、解雇が無効であっても、労働者が途中で就労意思を失ったと認定されれば、以後の賃金請求と地位確認が認められないことを示した事案です。ただし、再就職の事実だけでなく、復職案への無応答、救済申立ての取下げ、その後1年半以上の連絡の途絶といった客観的経過の積み重ねが決め手となっています。企業としては、解雇後の労働者側とのやり取り(復職案の提示と回答、団交や労働委員会での主張、連絡が途絶えた時期)を時系列で記録しておくことが重要です。さらに、退職勧奨拒否後の休業命令や団交中の解雇通知書送付が慰謝料の対象とされたように、解雇の有効性とは別に、解雇に至る手続の進め方にも慎重さが求められます。5.重要判例2「リバーサイド事件東京高裁令4・7・7判決」シフト制のアルバイト従業員が勤務希望日を出さず欠勤を続けたため、会社が退職扱いとしたところ、従業員は退職の意思表示をしていないとして地位確認と賃金の支払いを求めました。東京高裁は、合意退職の成立を否定して地位確認を認めたうえで、就労意思が明確でなかった期間の賃金は否定しつつ、会社が復職の意思を認識しながら、新たにアルバイトを採用した後は使用者の責めに帰すべき不就労であるとして、賃金の一部の支払いを命じました。<事案の概要>Xは、Y社と期間の定めのないアルバイト契約を締結し、勤務日・勤務時間は「シフト表により定める」とされていました。平成31年1月以降、Xの希望日は激減し、同年3月13日以降はシフトを提出せず出勤しない状態が続きました。Y社は4月下旬に社会保険等の資格喪失手続の開始を、7月頃に3月31日付で退職処理した旨を通知しましたが、Xは電話やLINEで退職の意思を否定し、8月頃には労働組合を通じて復職を求め、10月には団体交渉が行われました。Y社は一貫して合意退職を主張し、翌年3月には新たにアルバイト2名を雇用しました。第一審(東京地裁令和3年3月30日判決)は、合意退職は認められないとして地位確認を認容したものの、Xが連絡をせず復職時期も明確にしなかったことから就労の意思があったとは認められないとして賃金請求を棄却し、Xが控訴しました。【図表2】リバーサイド事件の時系列<判決のポイント>裁判所は、退職の意思表示に関する書面がなく、Y社による退職意思の確認も明確に行われていないこと、Xが店舗の鍵や私物を残し、電話やLINEで退職を強く否定して復職の意思を述べていたことから、確定的な退職の意思表示があったとは認められないとして、合意退職の成立を否定しました。Y社の解雇の主張についても、第一審まで一貫して合意退職を主張していたこと、無断欠勤等の解雇事由を裏付ける証拠がなく、コロナ禍を理由とする人員削減の必要性もアルバイトの新規採用や新店舗の開店から認められないことを挙げ、退けました。賃金については、労働組合が要求書を送付した8月頃までXは復職時期を明確にしておらず、直ちに復職させなかったことがY社の責めに帰すべき事由とはいえないとしました。しかし、その後Xが組合を通じて再三復職を求め、Y社もその意思を明確に認識しながら翌年3月に新たにアルバイト2名を雇用したことから、同月以降は就労させることが可能であったとして、以後の不就労はY社の責めに帰すべき事由によるものと判断しました。賃金額は、Xが自ら勤務日数を減らしていたことやコロナ禍の営業状況を考慮し、直近の平均労働時間である月95時間に時給を乗じた12万3,500円としました。<学ぶべきポイント>本件は、雇用契約が存続していることと賃金が発生することは別問題であることを示した事案です。シフト希望を出さず復職時期も明確でなかった期間の賃金は否定された一方、労働組合を通じて復職を具体的に求め、会社がそれを認識しながら人員を補充した後は、会社側の受領拒絶と評価されました。復職要求を受けながら合意退職の主張に固執し、他方で採用を続けたことが、使用者側に不利に働きました。また、「無断欠勤が続く=退職」と安易に処理することの危険も示されています。出勤しなくなった従業員には、書面等で就労・退職の意思を確認して記録に残し、雇用関係を終了させるのであれば解雇として手続を踏み、解雇事由を客観的に説明できる状態にしておく必要があります。シフト制では就労意思や賃金額をめぐる議論が生じやすいため、契約書で勤務日数・時間の目安や決定手続を明確にし、厚生労働省の「シフト制」に関する留意事項(令和4年1月7日)も参考に運用を整えておくことが望まれます。6.二つの裁判例からみる実務上の留意点以上の二つの裁判例を踏まえ、企業が解雇紛争において留意すべき点を整理します。第一に、再就職の事実だけで就労意思の喪失を主張しないことです。解雇された労働者が生活のために他社で働くことは自然であり、再就職のみを理由にバックペイがなくなるとは限りません。むしろ、再就職後も復職要求を継続しているか、元の会社への復帰に向けた具体的行動を取っているかが重要です。第二に、解雇後のやり取りを時系列で記録することです。解雇通知だけでなく、本人や代理人からの復職要求、団体交渉の申入れ、労働委員会での主張、会社からの復職案、回答の有無、その後の連絡状況などが、就労意思を判断する重要な証拠になります。解雇事件では、解雇時の資料だけでなく「解雇後の資料」も保存する必要があります。第三に、紛争が長期化している場合には、就労意思を確認することも検討すべきです。例えば代理人を通じ、「当社としては本件解雇が有効であるとの従前の見解を維持しておりますが、その点とは別に、現在も当社での就労を希望されているか確認いたします。」と確認する方法が考えられます。解雇の有効性についての会社の立場を留保しつつ、復職意思の有無を明確にしておくことがポイントです。第四に、復職条件を提示する場合は、現実的かつ合理的な内容にする必要があります。従前より著しく低い賃金、明らかに不合理な職務、実質的に受け入れ不可能な勤務条件等を提示し、拒否したことをもって「就労意思なし」と主張することは危険です。<企業側の確認チェック>□解雇後の復職要求の有無と内容を記録しているか□団交・労働委員会・訴訟での本人の主張を時系列で整理しているか□再就職の事実だけで「就労意思なし」と判断していないか□復職案を出す場合、現実的かつ合理的な条件になっているか□長期紛争では、現在の就労意思を明確に確認しているか第五に、「無断欠勤が続く=退職」と安易に処理しないことです。リバーサイド事件が示すとおり、勤務希望を出さない、連絡がないといった事情があっても、退職の意思表示が明確でなければ雇用契約の終了が認められないことがあります。就労意思が認められない期間の賃金の問題と、雇用契約を終了させる問題は分けて判断する必要があります。7.まとめ双龍産業事件とリバーサイド事件から分かるのは、解雇紛争では「解雇が有効か無効か」という一つの論点だけを見ていては不十分であるということです。解雇が無効でも、その後の全期間について当然に賃金請求が認められるとは限らず、労働者が、どの時点まで、あるいはどの時点から当該会社で働く意思を有していたのかが問題となります。双龍産業事件では、救済申立ての取下げやその後の長期間の連絡の途絶から途中で就労意思を喪失したと判断され、リバーサイド事件では、当初は就労意思が認められない期間があったものの、労働組合を通じた復職要求によって意思が明確となり、その後の一部バックペイが認められました。この考え方は、判決だけでなく和解交渉にも影響します。従来、使用者側では、解雇が無効となれば判決までバックペイが積み上がることを前提に、訴訟が長期化するほどリスクが拡大すると考えるのが一般的でした。このリスクは現在も大きいものですが、労働者が他社で安定的に勤務し、会社からの復職確認に応答せず、復職を求める手続を自ら終了させ、その後長期間連絡をしていないといった客観的事情が重なる場合には、「仮に解雇が無効としても、どの時点まで賃金が発生するのか」が独立した争点となり、バックペイの終期について争う余地が生じます。一方で、労働者が団交や訴訟を通じて継続して復職を求めている場合には、他社で働いていることのみを理由にバックペイを否定することは難しいでしょう。したがって企業側としては、解雇理由の立証だけでなく、解雇後の労働者の対応や行動を継続的に把握し、記録しておくことが重要です。復職要求、団体交渉、労働委員会、再就職、会社からの就労意思確認、復職条件の提示と回答などを時系列で整理しておくことで、紛争の見通しをより正確に判断できるようになります。もっとも、「就労意思の喪失」は不当な解雇を正当化する理論ではありません。解雇の有効性は労働契約法16条に基づいて別途厳格に判断され、再就職しただけ、復職条件を一度拒否しただけといった単独の事情で簡単に就労意思が否定されるものでもありません。今後、解雇紛争を検討する際には、「解雇の有効性」「雇用契約上の地位」「就労意思」「バックペイの発生期間」を分けて整理する視点が、より重要になると考えられます。【参考裁判例】双龍産業事件(東京地判令和7年9月11日)、リバーサイド事件(東京高判令和4年7月7日)提供:税経システム研究所
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2026/10/16 日本経済と世界経済
人口から見た歴史と未来
1人口から見た日本の太平洋戦争まで(1)江戸時代末期に日本の人口は3300万人~3400万人であった。江戸時代は平和が続いたことと、新田開発が進んだことで、人口は江戸時代初期の1200万人~1500万人から、100年後には約3000万人に急増したが、その後は自給自足経済であったため、天候等に左右され、人口は3300万人~3400万人で横ばいで推移した。(2)明治時代に入ると産業革命が起きたことと、医療の発達で幼児死亡率が減少したため、1912年(明治45年)には5000万人、1936年(昭和11年)には7000万人と増加し、太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)には7800万人に達した。(3)日本が満州開拓に出兵した大きな理由に、この人口急増があった。自給自足経済では、日本は3300万人~3400万人しか生きていけない状況は続いていたため、この人口急増に対処するためには、海外への移民と満州出兵等が必要だったと思われる。事実、ブラジル移民は1908年(明治41年)に始まり、26万人の日本人がブラジルへ渡っている。また、ペルーへは1899年(明治32年)に南米初の移民が790人ペルーに向けて渡っている。この他、パラグアイへも1936年(昭和11年)に移民が行われている。(4)上記のように、日本が太平洋戦争に突入した背景に、この日本の人口増加があったと思われる。英国やフランスも産業革命や医療の発達で人口急増したことが、世界各地に植民地を作っていった背景にあると思われる。英国やフランスは、急増した人口を海外へ移民させて国内の人口急増を抑制することに加え、植民地から食料(小麦や革等)を輸入することで、人口増加による自国の食糧不足を補った。もちろん、この時代は船舶による輸送も簡単ではなかったので、他国と自由に貿易することは困難であった。このような状況から、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入したと思われる。2人口から見た戦後から現在(1)太平洋戦争が終わった1945年(昭和20年)の日本の人口は、戦争による死者等により、500万人減少し、7300万人になった。その後、日本は1950年(昭和25年)8400万人、1967年(昭和42年)10000万人と1億人を突破した。2011年(平成23年)12800万人とピークを迎えた。日本はこの人口増加に対応するため、1953年(昭和28年)ブラジル丸によるブラジル移民を再開し、1973年(昭和48年)までこの移民船によるブラジル移民は続いた。太平洋戦争後には人口増加に対応するために、カンボジア移民も検討されたが、インドシナ戦争の拡大等もあり中止された。このように戦後も人口問題を乗り切るために移民も行われたが、他方、戦後は平和になった上、世界的に自由貿易が行われるようになったため、日本は海外原材料を輸入して、それを加工したり、技術力を活かして製品を輸出するという「ものつくり」大国の道を歩んだ。これにより、自国領土を増やさなくとも、人口増加に対応できることになった。しかも、昭和の時代の人口急増は若い労働力人口が増加したことにより生じたもので、中高年は増加しなかったため、いわゆる「人口ボーナス」現象がおきて、日本経済は「岩戸景気」や「いざなぎ景気」という前代未聞の大発展を遂げた。まさに「平和」と「自由貿易」が日本経済大発展の原動力であった。(2)しかし、日本は1975年(昭和50年)に特殊出生率(女性が一生に産む子供の数)が2を割り、初めて1.91となった。人口の将来的な減少の始まりだ。この時は「1.91ショック」と言って大騒ぎになったが、その頃スウェーデン等、社会福祉国家では人口減少が止まっていたので、日本も社会福祉国家を目指せば、特殊出生率は2を上回り、人口減少は起きないと言われ、日本は福祉国家を目指してつき進んでいった。当時は「高福祉、高負担」国家を目指すとまで言われた。しかし、福祉国家は高齢者の寿命を延ばしたが、出生率は上昇させなかった。スウェーデンも現在、特殊出生率は1.51で、2を下回っているし、その数字も外国の移民を入れることで実現できているようだ。したがって、平成以降の日本経済は、若年者の減少と高齢者の増加で、生産力は上昇しない上、高齢者医療や介護で社会保障負担が急増し、国民負担等も高まっていった。その結果、日本は失われた30年が続いてきた。そして、現在もこの「人口逆ボーナス」と言われる経済状況が続いていると思われる。この状況下で、日本は海外の若年労働者の受け入れを拡大し、生産も増強を図ってきたが、その受け入れも、現在「米中分断」「世界平和の動揺」から難しい状況になってきている。今後はAIやITの活用を図り、生産性の上昇を図る道へ移行していくことが不可避と思われる。3人口から見た未来(1)2025年(令和7年)の人口は12300万人で、ピーク前から500万人減少しているが、未だその減少幅は少ない。しかし、団塊の世代(昭和22年~昭和25年生まれ)が死んでいくと、急速に人口減少が加速し、2046年(令和18年)には9960万人となり、1億人を割る。2050年(令和22年)9700万人、2100年5000万人、2120年3600万人と予測されている。経済規模(GDP)は人口×1当たりGDPだから、人口減少が加速すれば、日本のGDPも大きく減少していく。消費も生産も減少していく。もちろん、AIとITの発達で無人の生産力は高まると思われるが、消費は人口減少により確実に減少していく。(2)しかも、その時代には大都市に人口は集中し、中小都市は大都市に吸収されていく。人口10万人というのが生活必需サービスを提供できる都市のギリギリの規模と言われる。例えば、救急告示病院、産婦人科、高等学校、公共交通機関のインフラ維持、スーパーマーケット、クリーニングサービス等々は人口が10万人以上あって初めて成立する。この人口10万人以上の都市は、2020年(令和2年)83市あったが、2070年62市、2100年40~45市と減少していくと、京都大学経済研究所教授の森知也氏は予測している。経済的には、東京の一層の集中が高まると思われる。その東京圏も森知也氏の予測では、2020年(令和2年)3420万人から2120年には1350万人に減少する。大阪や名古屋も東京のストロー効果で人口減少し、地価も大幅ダウンする。大阪圏は「インバウンド観光」と「エンタメ」のハブとして、名古屋圏は「ものつくりとリニアの超効率サプライチェーン」と「東京圏のバックアップ拠点」として存続することになると森知也氏は予測している。この予測から見えてくる日本の未来は、東京圏のみが付加価値を生む拠点として残り、未来の地方都市は広大な低コストの生産インフラの空間となり、人の住む場所ではなくなっていく。結果として、日本の地価は大暴落し、多くのタワーマンションは住む人を失った廃墟となる恐れがあると思われる。人口から見えてくる未来は経済的には好ましい状況ではないが、人口も減少した日本人にとっては過密が解消し、むしろ快適な空間になっていることも想定されよう。(3)しかし、この状態になるまでの21世紀中は自給自足で成り立つ3000~4000万人を上回る多くの人口を抱えている。この間は狭い国土しかない日本にとって平和で自由貿易が行われていることが何よりも重要だ。世界的にはウクライナ戦争やイランとイスラエル、米国の戦争等が起こり始め、平和の時代が終わり、戦争の時代に入ったように見受けられるが、日本にとっては平和であること、そして自由貿易体制が維持されることが何よりも重要だと思う。平和を守るためにも防衛力等を強化して、戦争に巻き込まれないような体制整備と自由貿易体制を維持するための国際協力が極めて重要だと思われる。提供:税経システム研究所
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2026/10/06 行政DX
デジタルにおける「資格、属性等」の証明(属性証明)の実現に向けて
1.はじめにマイナンバーカードの普及に伴い、公的個人認証サービス(JPKI)を用いたオンライン上で「確かに本人であること」を確認する身元確認の基盤は、私たちの社会に定着しつつある。一方で、行政手続きや民間サービスで広く用いられる住民票の写し、就労証明書、資格証明といった「属性証明」の分野では、依然として紙や単に紙をスキャンしたPDFファイルのやり取りが主流であり、デジタル完結やバックオフィス連携の自動化を阻む壁となっている。このような課題に対し、総務省の「デジタル技術を活用した効率的・効果的な住民基本台帳事務等のあり方に関するワーキンググループ」から令和8年3月に発表された最終とりまとめ(注1)では、住民票の写しの交付等に係る市町村の負担軽減が議論される中で、複製やなりすましリスクが高い単純PDF化を避け、暗号技術で改ざんやなりすましを防ぐデジタル証明技術である「VerifiableCredentials(VC)」の活用可能性を検討する方向性が示されている。また、政府の基本方針である「デジタル社会の実現に向けた重点計画」(令和8年7月改定)(注2)においては、VC等のデジタル証明書をスマートフォンの中に安全に保管し、自分のコントロールで提示できる電子の財布「DIW(デジタルアイデンティティ・ウォレット)」の構築が明記された。そして、令和8年度に住民票の写し等の具体的な証明書を対象とする共通的な技術・運用要件の整理に着手し、令和9年度中に要件を取りまとめ、令和10年度までに初の公的ユースケースを創出し、令和12年度までに複数の社会実装を実現するというロードマップを掲げている。本稿では、これら政府の動きと連携し、デジタル庁で開催されている「属性証明の課題整理に関する有識者会議」およびそのもとで専門的議論を行っている「技術ワーキンググループ」での議論(注3)を基に、この新しい信頼のインフラがもたらす変化、現在検討されている課題やユースケース、そして今後の展望について解説する。2.属性証明のデジタル化2.1マイナンバーカードによる身元証明と残された課題マイナンバーカードの普及により、ネット上で「私は誰々である」という厳格な身元確認やログイン(当人認証)は大きく前進し、今や実用段階に達したと言える。しかし、その人が「どこに住んでいるか」「どこの会社で働いているか」といった、日々の手続きに必要な「資格や属性」を電子的に証明するインフラは未だに未整備である。ここで、私たちが日常的に行っている紙や単純PDFを使った証明書のやり取りには、以下の3つの大きな課題があるとされる。改ざん・なりすましリスク:電子ファイルとしてのPDFは改ざんや偽造が比較的容易であり、紙の証明書のように「透かし」や「手触り」といった物理的な真正性確認が困難である。デジタル空間においては、偽造されたPDFを見破るための技術的な仕組み(デジタル署名等)がなければ、なりすましや詐称が容易に通用してしまう。機械可読性の欠如:PDFや紙スキャンの画像データは構造化データではないため、受け取る側での自動的なデータ処理や判定ができない。このため、バックオフィス側で担当職員が目視で真正性を確認し、手作業でシステムへ転記するという「アナログフォールバック」が発生し、業務プロセスの完全自動化を妨げている。バックエンド連携の限界:官民や民民間における多種多様な属性を、システム同士を直接つなぐ「N×Nバックエンド連携」ですべて網羅することは、コスト・制度面から不可能とされる。マイナンバー情報連携等に代表される行政機関同士の直接的な情報連携は進んでいるものの、すべての手続きをバックエンドの直接連携で網羅することには、制度的・物理的な限界がある。さらに、民間企業が関わる手続きや、民民間での多種多様な属性のやり取りをすべてバックエンドで結合することは現実的ではない。2.2個人が情報をコントロールするフロントエンド型情報連携(IHVモデル)2.1で示した課題に対応するために提唱されているのが、IHV(Issuer-Holder-Verifier)モデルと呼ばれる「フロントエンド型(利用者介在型)情報連携」である。IHVモデルとは、発行者(Issuer:自治体や企業等)が発行した信頼できるデジタル証明書(VC)を、保有者(Holder:個人ユーザー)が自身の電子の財布(DIW)で保管し、必要なときに検証者(Verifier:手続きの受け手)へ提示する仕組みであり、このモデルを用いることで、上記課題の解決だけでなく、以下のような変化がもたらされる。ユーザー中心のデータ管理:特定の巨大IT企業や政府のシステムにデータを預けっぱなしにするのではなく、暗号技術を使い、個人が自分のデータを自分の手元(ウォレット)で自ら管理できる。検証可能性(Verifiability):受け取った相手は、暗号学的な検証によって「本当に正しい発行元が作ったか」「途中で改ざんされていないか」を機械的に瞬時に確認できるため、目視や問い合わせによる確認が不要になる。データミニマイゼーション(情報の最小開示):「選択的開示(SelectiveDisclosure)」と呼ばれる技術を使うことで、相手に見せる情報を必要最小限に抑え、プライバシーを最大限に保護できる。2.3物理的なカード・財布と電子的な財布(VC・DIW)IHVモデルで登場する3者間の関係をデジタル空間上で支える技術が、VC(VerifiableCredentials:検証可能なデジタル証明書)と、DIW(DigitalIdentityWallet:電子的な財布)である。これらは、表1で示すように私たちが日常持ち歩いている財布とカードを、デジタル化したものと考えることができる。表1電子的な財布と証明書(VC・DIW)とは図1IHV(Issuer-Holder-Verifier)モデルと選択的情報開示従来のカード提示では、年齢確認(例えば酒の購入時)のために、住所や氏名、顔写真等の情報をすべて相手に見せる必要があった。これに対して、現在国際標準として検討が進められている「SD-JWT」等の技術を用いたVCを用いると、住民票や身分証のデータの中から「20歳以上である」という特定の事実だけを数学的に切り出し、それ以外の住所や氏名を完全に隠したまま提示できるようになる。これにより、過剰な個人情報の露出や、不要な名寄せを完全に防ぐことができる(図1)。2.4想定されるリスクと対策デジタル証明書であるVCや電子的な財布であるDIWを社会のインフラとして整備するためには、技術・運用の両面で以下に挙げる4つのリスクに対処しておく必要がある。正規VCの盗用・再利用によるなりすましリスク:他人のスマートフォンや通信経路上から正規のVCデータが盗まれ、悪意ある第三者によって「なりすまし提示」に使用される。対策:VC内に所持者のDIWに設定された公開鍵に紐づけて、提示時にDIWに設定された秘密鍵の所有証明を求める「HolderBinding」や、スマートフォンの安全な領域(SecureElement等)やクラウド上の堅牢なハードウェア(HSM)で秘密鍵を保護し、提示時にスマートフォンの生体認証を求める対策をとる。偽造VCや、派生VCの受け入れ被害リスク:悪意ある偽の発行者が本物に見えるVCを作る、原本の発行権限のない第三者がコピーした情報をもとに派生VCを作成して、検証者に提示する。対策:従来のインターネットで用いられる公開鍵証明書を用いた「署名元の実在性確認」に加えて、審査を通過した適格な発行者のみを登録する公的な信頼リスト「TrustedList」を整備し、受け取り側が自動照合できるようにする。プライバシーの侵害(名寄せトラッキング)リスク:VCに含まれるデジタル署名値や、発行日時・シリアル番号等のメタデータを、複数の検証者が裏で結託して突き合わせ、個人を特定・名寄せする。対策:選択的開示(SD-JWT等)の仕組みを標準採用するほか、提示ごとに暗号値を変更する等して、結びつけを不可能にする対策を講じる。ウォレットのサービス終了や紛失(可用性低下)リスク:ウォレットアプリを提供している事業者が急に撤退する、スマートフォンを紛失・機種変更した際に、保管していたVCを安全に移行・復元できなくなる。対策:ウォレット間でデータを引っ越しできる標準プロトコル(ポータビリティ)の採用や、暗号化バックアップ、安全な失効管理リスト(StatusList)の確立を義務付ける。但し、これら対策について、すべての用途に高いセキュリティ要件(例えばハードウェア的に安全性を担保するSecureElementの利用を義務付ける等)を課すと、民間や自治体の開発コストが高騰する可能性があり、また、民間のウォレットアプリ事業者の参入障壁となり普及を阻害する等の問題も指摘されている。そのため、デジタル庁における検討では、ユースケースの重要度に応じて「最低限の対策」と「高リスク用途における追加推奨要件」の2段階に分ける実用的なガイドライン設計が進められている。また、すべての企業や大学が、最初からVC発行システム(Issuer)を導入できるとは想定されないとの指摘もあり、移行期の救済策として、信頼できる第三者(銀行や行政、公証機関等)が、窓口やシステムで既存の「紙の原本」や「PDFの原本」を確認し、その確認プロセスの証跡を付与して一時的なVCを代理発行する「Notarization(公証)モデル」の検討も進められている。さらに、スマートフォンを保有しない高齢者や子供、あるいはウォレットアプリを利用したくないユーザーへの対応も検討されており、暗号化されたVCをサーバーサイドに保管し、ブラウザ上で一時的にウォレット機能を立ち上げる「WebWallet」も提案されている。これを用いると、例えば、コンビニのキオスク端末等にマイナンバーカードをかざし、ブラウザから安全に必要な属性情報だけをその場で提示するような仕組みの実現が可能となり、スマートフォンがないユーザーも恩恵を受けることができる。3.具体的なユースケースVC・DIWの議論を進めるために、私たちの日常に密着した住民票(官から民)、就労証明書(民から官)、そして波及効果が非常に大きいと考えられる税務の3つの領域について、ユースケースと課題・対策の検討が進められている。3.1住民票の写し交付・提示事務住民票の写しは、マイナンバーカードの普及に伴い、市町村職員の手を介さないコンビニ交付の件数が増加しているが、依然として、年間約4,098万件(令和5年実績)が市区町村の窓口等で交付されており、地方公共団体にとって極めて発行負担の大きい公的証明書となっている。住民票の写しは、民間の手続き等で事実上の本人確認や家族関係の確認に広く使われており、これを単純にPDF化して電子交付する方式では「複製によるなりすまし」や「偽造」のリスクが極めて大きいと指摘されている。このため、市区町村(Issuer)が検証可能な住民票の写しVCを本人のスマートフォン(DIW)に対して電子交付し、本人はそれを受け取って、民間企業等(Verifier)にオンラインや窓口で提示することが検討されている。また、個人情報保護法改正やSNS等の年齢制限規制にともない、未成年の法定代理人(親権者)の同意確認や通知をどう行うかが喫緊の社会課題となっている。ここで簡便なデジタル確認手段がないと、各民間事業者は、「戸籍謄本や住民票の原本のコピー」の郵送・送信を求めることとなり、大量の機微情報が民間に蓄積・流出することで、プライバシー上も問題を引き起こす可能性がある。住民票の写しVCから「選択的開示」を使い、住所や他の世帯員等の機微情報を完全に秘匿したまま、「この2名が親子関係であるという事実のみ」を提示する仕組みは、プライバシーを守りつつ、必要な事務処理を自動化するキラーユースケースとして位置づけられている。3.2保育所入所審査・現況届事務認可保育所の入所申請時や年1回の現況届において自治体に提出する就労証明書は、現在は従業員(申請者)が勤務先企業に紙やPDFの就労証明書を発行してもらい、これを自治体に提出している。これに対して、本人がExcel等で就労項目を自分で都合よく埋めて提出してしまう「なりすまし・改ざんリスク」や、自治体職員が1件1件企業への在籍を目視で確認・手入力して判定する「アナログ手戻り」が発生しているとされる。これについては、勤務先企業または企業が利用する人事労務SaaS(Issuer)が、従業員のスマートフォン等に向けて就労証明書VCを発行し、従業員(Holder)が自治体(Verifier)の電子申請システム等へオンラインで提示することが想定されている。一方で、すべての民間企業(特に零細・中小企業)が自ら署名用秘密鍵をセキュアに生成・管理し、独自のインフラから署名付きVCを発行することは、技術的・コスト的に不可能に近い。このため、現実には、クラウド人事労務システム(SaaS)や、給与計算BPO事業者が、企業に代わって署名を打つ「署名代行モデル」が主要な形態となると想定されている。このとき、署名鍵自体は代行事業者のものであっても、GビズID等を経由して「企業と代行事業者の間の正当な委託関係」にあることを確認できることが必要となるため、そのための仕組みを整備していくことになる。3.3税務分野における想定ユースケースVC・DIWの導入は、単に「住民票」や「就労証明書」といった個別の行政書類のデジタル化にとどまらず、社会全体の信頼インフラを再構築する可能性を秘めている。そして、その波及先として期待されるのが、多種多様な民間データ(証明書、領収書等)と公的手続き(国税・地方税)が複雑に交錯する税務領域である。税務領域は、民間企業、従業員、行政(国税庁)、税理士等の複数のプレーヤが絡み、紙の証明書の収集や手作業の目視確認が多く残る領域であるため、例えば以下のようなユースケースにおいてIHVモデルが高いシナジーを発揮すると考えられる。年末調整の完全自動化:年末調整手続きでは、毎年4,700万人程度の従業員(注4)が生命保険料控除証明書、地震保険料控除証明書、住宅ローン年末残高証明書、配偶者控除のための所得・就労証明といった多種多様な紙の証明書を集め、企業の経理・総務部門に提出する極めて非効率的なプロセスを伴っている。現在国税庁は、年末調整手続の電子化に向けた取組を進めており、保険会社等については対応が進んでいるが、全ての証明書の電子化は難しい状況にある。これに対して、生命保険会社や金融機関、給与支払者(Issuer)が控除証明や所得データをVCとして発行し、従業員(Holder)が自身のウォレット(DIW)から、経理・総務部門(Verifier)に管理・一括提示できる仕組みを導入することが可能となれば、署名による非改ざん性と検証可能性により、従業員の誤入力を防ぎ、現在行われている経理・総務部門による目視確認や複雑な所得控除判定を完全自動化できる。税理士等への代理・委任:ITや税制に不慣れな一般市民や高齢者のために、専門家が書類を代理収集・申請するプロセスでは、本人が正当に税理士へ処理を委託したことを証明する委任関係VC(DelegationVC)の利用が考えられる。日本税理士会連合会等の公的団体により、税理士の署名鍵や所属する税理士法人の実在性を検証するために必要な適格税理士リスト(TrustedList)の整備が進めば、税理士が委任関係を示すDelegationVCを自身のウォレット(DIW)を用いて提示することで、税務当局や民間の生命保険会社等は、正当な代理権に基づいた証明書類の代理収集や電子申請であることを機械的に判断し、認可できるようになる。AIエージェントを用いた確定申告:ふるさと納税の寄附証明や医療費の領収書をVC化することで、国税庁等の検証者(Verifier)は発行元の実在性とデータの正確性を瞬時に確認できるため、領収書の使い回しや偽造申告を完全に防ぐことができる。さらに将来、自律的なAIエージェント(ユーザーの代わりに自律的に判断し、タスクを完了させるAIシステム)が人間の委任を受けてログインから確定申告手続きまでを完全自動で処理する時代が到来したとき、AIに入力されるデータ自体に検証可能性が組み込まれたVCが利用可能となれば、安心してAIエージェントに確定申告等の重要タスクを委任することが可能となる。4.さいごに2021年に発行された「ワクチン接種証明書」も一種のVCではあったが、その後、日本のみならず、世界中でVCの標準化と社会実装の難しさに直面しており、VC・DIWの社会実装はなかなか進まない状況にある。しかし現在、我々は、爆発的なAI技術の進歩の中で、AIエージェントの台頭という大きな社会変革の中にいる。AIエージェントが普及すると、人がPCやスマートフォンを直接操作することなく、AIエージェントがユーザーの代わりにログインや購入決済、各種行政手続き等を自動で自律処理するようになると想定されている。このような世界で、AIエージェントにユーザー自身の住民票、資格、支払い情報等を適切にハンドリングさせ、タスクを安全に委任するためには、データ自体に改ざん検知や真正性を検証可能な仕組みが組み込まれている必要がある。そうでないと、AIエージェントを標的とした偽情報の流布やデータの改ざん、なりすましによって、デジタル社会全体の信頼性が揺らぎかねない。このため、属性証明のデジタル化は、単なる「利便性の向上」だけではなく、来るべきAIエージェント社会における信頼の基点であり、そのための社会インフラの整備であるととらえることもできる。今後、少子高齢化の進行により人材不足が深刻な課題となる中で、人々が正しく安全にAIを使いこなし、共生していくために必要となる基盤をデジタル庁が中心となりどのように整備していくのかについて引き続き注目していきたい。<注釈>総務省,デジタル技術を活用した効率的・効果的な住民基本台帳事務等のあり方に関するワーキンググループ最終とりまとめ,https://www.soumu.go.jp/main_content/001062307.pdfデジタル庁,デジタル社会の実現に向けた重点計画(令和8年7月21日閣議決定),https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/5ecac8cc-50f1-4168-b989-2bcaabffe870/0b0aaf79/20260721_policies_priority_outline_06.pdfデジタル庁,属性証明の課題整理に関する有識者会議ホームページ,https://www.digital.go.jp/councils/vc-diw-governance国税庁令和6年分民間給与実態統計調査,https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2002/menu/06.htm提供:税経システム研究所
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2026/09/30 人事労務管理
昨今労務事情あれこれ(226)
1.はじめにこの夏は各地で地震や豪雨による自然災害が相次ぎました。6月24日鹿児島県を中心とする九州全域で線状降水帯による豪雨で死傷者や住宅の浸水被害、7月28日には熊本県で最大震度7を記録する「令和8年熊本地震」により多くの人的被害や建物の被害、また、8月13日から14日未明にかけては、千葉県を中心とする関東地方で線状降水帯が連続して発生、短時間での内水氾濫や土砂災害により死者や家屋・農地の浸水、車両の水没、8月下旬には石川県・富山県で線状降水帯の発生による河川氾濫・浸水により各地で深刻な被害が出たことは記憶に新しいところです。夏から秋への季節の移り変わりとともに、勢力の強い台風が日本に接近しやすくなる時期を迎えますが、今年は、台風の発生数も例年に比べて多い傾向となっており、9月から10月にかけての台風シーズン本番にさらなる被害が出ることも懸念されています。自然災害により事業所や従業員が被災して事業運営に直接的な影響が出ることや、インフラが被害を受けたことによる物流の不安定化・原材料の調達困難といった間接的な影響を受けてしまうことは十分に想定できる事態です。地震、台風、豪雨などの自然災害が頻発する我が国において、企業は従業員の安全を確保する「安全配慮義務」(労働契約法第5条)を負うと同時に、事業継続(BCP)の観点からも迅速かつ適切な対応が求められます。今回は、自然災害発生時に直面しやすい労務管理上のよくあるケースを取り上げ、対応策について考えていきます。2.災害発生時の出退勤と賃金の取り扱いは?災害時に多く発生するのが、公共交通機関の運休や避難指示による「出勤困難」や「早退・自宅待機」のケースです。近年では、気象条件により安全な運行ができない事態が予想される場合、乗客の安全確保や駅の混乱防止のため、公共交通機関が事前に予告した上で運行を取りやめる「計画運休」が行われることも多くなっています。このような場合、賃金などはどのように取り扱うべきなのでしょうか?1.公共交通機関の運休で従業員が出勤できない場合従業員が労務を提供していない時間については、会社は賃金を支払う義務を負いません(ノーワーク・ノーペイの原則)。したがって、交通機関の運休等により出勤できなかった日や時間について、賃金を控除したとしても法令上の問題はありません。とはいえ、原則通りに賃金を控除するというのも、従業員にとっては酷な取り扱いとなってしまいます。このような事態への対応として、一般的によく見られるのが、事後申請による年次有給休暇取得を認める方法です。多くの場合、就業規則において、年次有給休暇の取得は事前の申出が原則である旨が定められており、事後申請は本来認められないものですが、事情を勘案した柔軟な取り扱いであり、あくまでも特例的なものと位置付けられます。また、慶弔休暇やリフレッシュ休暇などのいわゆる「特別休暇」のひとつとして「災害休暇」を設けている例もあります。2.企業側の判断で、安全確保のために「早退・自宅待機」を命じた場合災害の発生が予測されるため、就業時間途中で業務を打ち切り、全社的に帰宅を命じたり、翌日を自宅待機としたりすることも想定されます。労働基準法においては「使用者の責に帰すべき事由による休業の場合には、使用者は、平均賃金の60/100以上の休業手当を支払わなければならない」(第26条)とされていますが、安全確保のための早退や自宅待機の指示は「使用者の責に帰すべき事由」に該当するのでしょうか?この場合、休業の理由が「不可抗力(事業外部から発生した事故であり、事業主として最大の注意を尽くしてもなお避けることのできない事故)」に該当する場合は、休業手当の支払い義務はありません。一方、「交通機関は運行されており、事業所にも特段の被害は発生していないが、念のため休業にする」のように予防的に休業する場合は「使用者の責に帰すべき事由」に該当する可能性が高いというのが厚生労働省の見解です。企業側としては難しい判断を求められる場面となりますが、休業手当の支払いを惜しんで帰宅命令をためらった結果、従業員が被災すれば、甚大な安全配慮義務違反に問われ、損害賠償を求められる可能性があることは忘れてはなりません。安全最優先で判断を下していくようにしたいものです。3.事業所が直接被災した場合の対応は?災害により事業所が破損・浸水など直接的な被害を受けた場合、長期の営業不能・操業不能に追い込まれてしまうことが想定されます。1.事業所や工場が破損・浸水などにより、営業や操業が長期にわたり不能となった場合事業所の施設設備が直接被害を受け、物理的に事業継続が不可能となった場合の休業は、明確に「不可抗力」に該当するため、先述の「休業手当」の支払い義務はありません。とはいえ、賃金も休業手当も支給がない状態が続けば、従業員の生活が困窮し、離職につながるなどの事態も予想されます。このように災害を原因とする事業所の休業により、一時的に離職または休職を強いられた場合、「雇用保険の基本手当(失業給付)の特例措置」が実施されることがあります(注1)。これは、企業との雇用関係を維持したままでも、「事業所が災害により休業し、賃金を受けることができない状態」であれば、ハローワークで手続きを行うことで従業員が失業給付を受け取れるという非常に強力なセーフティネットです。職場が営業不能となり長期の休業となれば、従業員も先の見えない不安に襲われることになります。従業員の生活防衛を助言することが、企業の存続と人材流出防止につながるものと考えます。2.災害対応や復旧作業に伴う時間外労働被災直後には、1日も早い事業再開に向け、事業所の復旧作業など通常業務と異なる対応が発生します。また、幸いにも被害が軽微で、被災後ほどなく事業を再開できた場合、事業活動を休止していたしわ寄せが事業再開後に顕在化し、業務量が一気に増加してしまうことがあります。法定労働時間や36協定で定めた延長時間を超えて稼働しないと業務量増加に対処できないような場合はどのように対応すればよいのでしょうか。労働基準法では第36条に時間外労働の上限が定められていますが、第33条に「災害等による臨時の必要がある場合の時間外労働等」の例外が定められています。客観的に見て急を要する被害の復旧作業や、危険を防止するための作業に限り、所轄の労働基準監督署長に事前(事態急迫の場合は事後遅滞なく)に届出し許可を受けることで、36協定の限度時間を超えて労働させることが可能です。ただし、この33条の適用を受けた場合であっても、割増賃金の支払い義務は免除されないことになっています。緊急時だからといって所定の割増賃金を支払わないことは違法となりますので、労働時間の記録と適切な賃金計算は平時以上に徹底しましょう。なお、事業再開後の業務量増大による時間外労働は第33条適用の対象とはなりません。この場合、特別条項付き36協定を締結している場合を除き、36協定で定める範囲を超える時間外労働をさせることはできないため、改めて労使間で36協定を締結し直し、所轄の労働基準監督署に届出することが必要となります。4.災害時に業務中だった場合の労災保険の適用は?災害時に業務中または通勤中にケガをした場合、労災保険の対象となるかどうかもよく問題になります。例1)地震発生時、事業所内で倒れてきたキャビネットの下敷きになり負傷した業務中に発生した自然災害による負傷は、原則として労災(業務災害)の対象となります。労働者が事業主の支配下にある状態で発生した事故であり、事業所の設備が原因で負傷しているためです。例2)台風の中、通常経路で通勤途中に強風で飛んできた看板に当たり負傷した合理的な経路および方法による通勤中の事故であれば、自然災害が原因であっても労災(通勤災害)の対象となります。ただし、交通機関が運休しているにもかかわらず、会社の指示なく極めて危険な手段(例:線路を歩く、暴風雨の中を自転車で長距離移動するなど)で通勤し負傷した場合は、通勤の合理性が否認される可能性があります。また、会社の安全配慮義務(出勤を止めるべきだった)が問われることも考えられるため、危険な状況下では原則として「出勤させない」ことが最大のリスクヘッジと言えるでしょう。自然災害時のトラブルを防ぐためには、平時における備えが不可欠と言えます。「特別警報発令時や公共交通機関がストップした場合は、原則自宅待機とする」「その際の賃金は有給とする(または無給だが年次有給休暇の事後取得を認める)」といったルールを明文化しておくことは、従業員の不安を抑え、混乱を防止することにつながります。<注釈>直近では「令和8年熊本地震」「令和6年能登半島地震」において「雇用保険の特別措置」が実施されている。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000134526_00003.html提供:税経システム研究所
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2026/09/30 企業経営
中小企業のM&Aと企業価値評価(第25回)
【サマリー】第21回より最近の中小企業のM&Aについての国(中小企業庁)の働きかけ、具体的には中小企業のM&Aガイドラインについて解説しています。本稿では前稿に引き続き中小M&Aガイドラインの参考資料で紹介されている中小企業のM&Aの事例を挙げ、筆者のコメントを述べたいと思います。1.中小M&Aガイドライン(第3版)での中小企業M&Aの事例経済産業省から公表されている中小M&Aガイドライン(第3版)_参考資料4の「中小M&Aの事例」では以下のような事例が紹介されています。前稿までは中小M&Aが成立した事例を紹介しましたが、本稿では⑧何らかの理由により中小M&Aが成立しなかった事例を説明します。2.何らかの理由により中小M&Aが成立しなかった事例(1)中小M&A着手が遅れたため、資金繰りが尽きてしまい、中小M&Aが不成立に終わり廃業した事例【当事者情報】◆譲り渡し側:A社・業種:設備工事業・売上高:5000万円・従業員:5名・業歴:40年【意思決定に至るまでの経緯】A社代表者である大岡(仮)は70歳で、後継者候補もいないものの多忙な毎日に追われ、事業承継を考える暇がなかった。A社は金融機関から約2億円の借入を行い、何とか事業を継続していたが、大岡は体力が徐々に落ち始め満足に営業できなくなってしまった。それと並行して、A社は顧客が少しずつ離れていき、3年前に約1億円あった売上も約5000万円に落ち込んだ。資金繰りは日に日に悪化していき、2~3か月以内に資金繰りが尽きることが見込まれる状況に陥ってしまった。そこで大岡は弁護士に相談し、社外の第三者に事業を譲り渡そうと決意した。【不成立に至った経緯】資金繰りが悪化する中で、A社が譲り受け側(スポンサー)を探す時間的な余裕はほとんど残されていなかった。また、弁護士が紹介したM&A専門業者が懸命にスポンサー探索を行った結果、スポンサー候補が複数社、A社に関心を示したものの、活気を失ったA社の事業を譲り受ける決意をしたスポンサーは現れなかった。【不成立に至った後の経緯】A社は、資金繰り悪化に耐えきれず破産し廃業した。また、A社の金融機関からの借入について個人保証(経営者保証)していた大岡も同時に自己破産した。上記事例は資金繰りが悪化する中でM&Aを実施する意思決定が遅れたために、最終的に会社及び社長個人が破産したという最悪のケースです。前稿までの事例では様々な事情があったものの、M&Aの対象事業に収益力、ブランドや優良顧客などの無形資産が棄損していない状況で社長がM&Aの意思決定を行なったことがM&Aの大きな成功要因でした。筆者も事業の収益力や無形資産の価値が棄損した会社のM&Aの事例を経験しましたが、このようなケースでM&Aが成功するには例えば土地などの不動産の処分価格が高額で換金可能な場合などに限られます。特に資金繰りが悪化した状況(営業利益が長期間継続して赤字の状況とも考えられます)では、M&Aの譲り受け先であるスポンサーは現れないものと考えるべきであり、その意味においても当面の資金繰りが見込まれる段階でスピード感をもって果断にM&Aの意思決定をして実行に移すことが肝要といえます。(2)社外へ情報が漏れたことに伴い中小M&Aが不成立になった事例【当事者情報】◆譲り渡し側:A社・業種:製造業・売上高:3億円・従業員:20名・業歴:30年【意思決定に至るまでの経緯】A社代表者である遠藤(仮)は、事業はある程度順調なものの自身が70歳で後継者候補がいないことから、金融機関からの紹介でM&A専門業者に中小M&Aの相談を行った。【不成立に至った経緯】M&A専門業者が迅速に動いたことから、4か月でB社とのマッチングが実現した。その後基本合意を締結し、最終契約に向けて交渉を詰めていく段階にあった。遠藤は、当該M&A専門業者から「M&Aが成立して無事に決済が完了するまでは、M&Aに関する情報は慎重に取り扱うようにし、自社の従業員や社外の方には決して知らせないように。」と再三にわたって忠告されていた。しかし、遠藤は、B社が譲り受け側に事実上内定したと認識して安堵し、まだ決済どころか最終契約も完了していないにもかかわらず、従業員や一部取引先を含め色々な関係者にB社の名前を出した上で中小M&Aを行おうとしている事実を伝えてしまった。B社は、遠藤により中小M&Aの情報が流出したことを知って激怒し、信頼関係が崩れたことを理由にその後の中小M&Aに関する交渉を打ち切った。【不成立に至った後の経緯】その後、A社は、遠藤が80歳を迎える頃まで徐々に事業規模を縮小していき、最終的には円満に廃業に至った。遠藤は、B社との交渉が決裂した後になって初めて中小M&Aに関する情報の取扱いの重要性を理解した。上記事例は売り手サイドの経営者がM&Aに関する情報を外部に漏えいしたために、M&A自体がご破算になったものです。M&Aは通常、特定の関係者のみが関与して情報管理を徹底することが求められるために実務的には当事者間で秘密保持契約(NDA)を締結します。当該事例ではおそらくA社代表者が悪意なく身近な人たちにM&Aの内容を話して結果的にNDA違反を犯したものと推察されます。それではなぜM&Aでは情報管理が必要なのでしょうか。第一に売り手サイドの企業の職員や取引先に事前にM&Aの情報が漏れた場合に、職員や取引先の離脱や意図せざるネガティブな情報の流布などにより譲り渡し側の事業価値が低下する可能性があるからです。またM&Aは大きな金額で取引が実行されるために情報漏えいにより価格交渉が阻害される可能性もあります。M&Aの手続が順調に進むと売り手サイドでは安堵感を抱くことが想定されますが、M&Aの実務では最終段階でご破算になることも珍しくはないために最後の最後まで緊張感を持って対応することが望まれます。(3)オーナー一族間の不和、コミュニケーション不足により中小M&Aが不成立になった事例【当事者情報】◆譲り渡し側:A社・業種:製造小売業・売上高:5億円・従業員:50名・業歴:60年【意思決定に至るまでの経緯】15年前、先代オーナーであった父親の他界に伴い、製造部門の責任者であった長男(芦田一郎(仮))がA社の社長に就任し、販売部門の責任者であった次男(芦田二郎(仮))が副社長に就任した。その後、A社は新規事業に挑戦するも失敗し、また人件費の高騰等で業績は伸び悩み資金繰りが悪化した。芦田二郎はこのままではA社が破産してしまうと危機感を持ち、知り合いの弁護士に相談をしたところ、事業再生のためにはスポンサー探しが必要と示唆され、当該弁護士の紹介したM&A専門業者に依頼した。【不成立に至った経緯】M&A専門業者が複数のスポンサー候補を提示した。このうち、B者はA社の販路や知名度を高く評価し、A社の主力事業を事業譲渡の手法により譲り受けたいと興味を示し、二郎と面談を実施した。一方で、3代続く家業を第三者に譲ることに反対していた一郎は、二郎が社長である自分に相談せずスポンサー探しをしていたことに激怒し、二郎に副社長としての役職を辞任させ、更にB社との交渉を打ち切ってしまった。【不成立に至った後の経緯】A社従業員は、経営陣の内紛に不安を感じ退職者が急増した。その後A社は売上も思うように伸びず、徐々に事業規模を縮小していき最終的には自主廃業に至った。上記事例は共同経営者である兄弟間でのコミュニケーション不足を原因としてM&Aが中止となり最終的に自主廃業に至ったものです。兄弟または親子という肉親で共同経営している会社では兄弟間や親子間でのトラブルが発生するケースを耳にすることがあります。それぞれがそれぞれの立場で経営という重い責任を負っているために意見の食い違いや不一致が生じることは理解できるものの、一番問題となるのがこの事例のようにコミュニケーション不足により一方がもう一方の承認や意見聴取を求めることなく意思決定や手続きを進めてしまうことです。特に年下の経営者が年上の経営者に相談することがなかった場合には、その意思決定や手続きが会社にとって最良の判断であっても感情的に否定されることは容易に想像できます。M&Aや設備投資、資金調達など会社の命運がかかっている重要事項については、当事者が膝詰めで議論してお互いが納得のいく形で会社としての最終判断をすべきと考えます。(4)譲り渡し側が不誠実であったため中小M&Aが成立しなかった事例【当事者情報】◆譲り渡し側:A社・業種:運送業・売上高:10億円・従業員:30名・業歴:30年【意思決定に至るまでの経緯】A社は地域密着で運送業を営んでいたが、社長である近藤(仮)が75歳となり後継者候補がいなかったことから、中小M&Aを決意しM&A専門業者にマッチング支援を依頼した。【不成立に至った経緯】A社は地域内では有名な企業であり、同地域内のB社とのマッチングがすぐに実現し、近藤の有するA社株式の全部譲渡を前提に、順調に基本合意締結に至った。しかし、近藤は、B社への対応を甘く考えており、B社によるDDにほとんど協力せず、4か月経ってもDDの必要資料がほとんど揃わない状況であった。また、近藤はA社を手放すのが段々と惜しくなってきたため、譲渡条件がほぼ固まった後になって突然、中小M&A後も自分をA社の顧問として登用し、A社の経営を自分に委ねるようB社に対して要求するようになった。B社は近藤の不誠実な対応に嫌気が差し、A社及び近藤との信頼関係が損なわれたことを理由にA社との中小M&Aを断念し交渉を中止した。【不成立に至った後の経緯】その後もA社において中小M&Aが成立することはなく、近藤は数年後に持病で亡くなった。突然トップ不在となったA社は、役員・従業員間での経営権争いを経て元役員により承継されたが、長い社内抗争を経てすっかり弱体化し、その後自主廃業した。上記事例は、M&Aの最初の段階では手続きが順調に推移したものの、途中から売り手サイドのオーナーによる不誠実な対応が問題となって最終的に不成立となったものです。おそらく売り手サイドのオーナーは一代で苦労してA社をここまで育ててきたものと推察されるためにA社に対する愛着は相当高いと思われます。当該事例ではM&Aによる次世代への事業承継という理想的な姿ではなく、個人の過度な愛着と不誠実な対応によって一つの社会的公器が消滅したことを意味します。M&Aはオーナーが今まで育てた事業を将来にわたって継続していくための一つのツールです。これまで会社を育ててくれた社会に対する恩返しという意味においても、売り手サイドのオーナーには優良な事業を後世に残すというM&Aの意味を改めて考えてもらいたいと切に思う次第です。提供:税経システム研究所
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2026/09/30 企業経営
銀行金利上昇トレンドに対する対策(第1回)
【サマリー】金利上昇トレンドが明確になった環境下で、筆者の経験から考えられる融資残高の繰り上げ返済におけるデメリットを中心にご紹介し、繰り上げ返済の意思決定について解説します。また繰り上げ返済以外の対策についてもご紹介します。※なお、繰上げ返済に対する考え方や取扱いは金融機関によって異なります。本稿で紹介した内容は、筆者の経験に基づく一例であり、すべての金融機関やローン商品に当てはまるものではないことにご留意ください。銀行金利は継続的に上がっていくトレンドとなっています。この状況の中、地域企業はどう環境適応すべきなのでしょうか。以前のレポートで、借入金を繰り上げ返済して金利上昇によるコストアップの対策をしましょうと書きました。その際に、借入金の繰り上げ返済について詳しく説明していませんでしたが、実はメリットだけでなく、一度立ち止まって検討するべきデメリットもあります。今回、繰り上げ返済のメリット・デメリットについてご紹介します。(1)借入金の繰り上げ返済とは繰り上げ返済とは、毎月の約定返済とは別に、銀行から借入している融資残高の全部または一部を返済期日が来る前に返済することです。(2)企業にとっての繰り上げ返済のメリット企業にとっての繰り上げ返済のメリットには次のようなものがあります。支払利息の負担を軽減できる→決算の損益改善に寄与。月次の元利返済がなくなるため、多くの場合繰り上げ返済後の資金繰りが円滑になります。借入金返済で負債が減少し、自己資本比率が高くなる→今後の金融機関取引に有利。BS(貸借対照表)が改善され信用力が向上する→今後の金融機関取引に有利。(3)金融機関にとっての繰り上げ返済のデメリット意外に感じられると思われる、金融機関にとっての繰り上げ返済のデメリットの一つとして、筆者の経験から考えられるのは、金融機関側が繰り上げ返済を歓迎しない可能性があることです。金融機関が繰り上げ返済を回避したい理由には、次のようなものがあります。対象の融資先の借入残高シェアが減少する→支店の融資残高が減る方に動く→本部からの評価が下がる、もしくは上がらない→銀行員の将来に響く。安定的に得られる支払利息の収益が減る借入金の金銭貸借契約書の裏に読めないレベルの細かい字で契約約款が印字されていますが、その中には、「金融機関は貸出先の繰り上げ返済の申し出を断ることができる」と明確に書かれています。しかし、企業経営者には違和感があるのではないでしょうか。借りたお金を返済するのだから歓迎されるのが普通ではないかと。しかしそれは金融機関側の上記のような事情で、できる限り回避したい出来事なのです。筆者の経験から、「普段から金融機関とのコミュニケーションが悪い」「金融機関からの印象が悪いようだ」と感じている企業は注意が必要です。経営状態が悪化していると認識されている企業では特に注意が必要です。しかし、良い関係性を保っていると顧客の意思に反した行為を金融機関が行うことはありません。もし繰り上げ返済を法的に拒絶してくるような事態になれば、それは尋常な関係ではないと言えます。また、金融機関に同じようなインパクトを与える行動は、他行他金庫への融資取引の変更=「融資の肩代わり」です。既存の金融機関は想定外に融資残高が減り、金利収入がなくなり、他の金融機関にそれが移るということなので、絶対に避けたいこととなります。もし、繰り上げ返済を実行すると決められた場合は、早めに相談を掛けるのは得策ではありません。いろんな手段を用いて金融機関は自分たちの被害を最小限に抑えよう、あるいは繰り上げ返済をやめてもらおうと説得しようとされます。他の金融機関への肩代わりも同様です。繰り上げ返済を行うと決めて、期日直前に事務的に連絡するという形が穏便な方法と言えます。(4)企業にとっての繰り上げ返済のデメリット企業にとっての繰り上げ返済のデメリットの一つとして、筆者の経験から考えられるのは、次のようなものです。銀行によっては繰り上げ返済に伴う手数料が発生する、または違約金がかかるケースがある(これらも約定等に記載されています)手元の現預金残高が少なくなり、予期せぬ売上減少等で資金繰りが苦しくなる場合がある銀行との良好な関係性に影響する恐れがある資金を繰り上げ返済に充てたために事業に回すことが出来ず、事業の成長チャンスを逸するデメリットを見ていただくと、金利コストの増大を防ぎたいからという理由だけで、繰り上げ返済を進めるのは早計です。3年程度の損益と資金繰りのシミュレーションを行って、経営計画を組んでみて、資金面で大丈夫だという根拠を把握してから進めていただきたいと思います。複数金融機関との融資取引があれば、繰り上げ返済を行った先が急に冷たくなったりした場合のフォローが効きますが、単一金融機関取引の場合は十分に気を付ける必要があります。多くの金融機関が資金を借りてほしいと新規営業に来る企業は当面不安はありませんが、そうでない企業の場合は既存取引行の返済実績や信用は重要になる場合があります。(5)繰り上げ返済以外の銀行金利上昇への対応策それでは、繰り上げ返済のほかに企業が選択肢として考えられる対応策を考えてみましょう。筆者の経験から、次のような対応策が考えられます。①融資のまき直しを金融機関に実行してもらうかなり応用編になりますが、繰り上げ返済以外の金利対策もあります。これまでの論は金利に着目した対策としての繰り上げ返済でした。繰り上げ返済をするかしないかの判断は意外に複雑なものであることがご理解いただけたかと思います。そこで、金利ではなく、月次の約定返済額(元本+金利)に着目すると別の対策が見えてきます。「融資のまき直しをしてもらって返済期間を長期化する」という方向性です。融資のまき直しとは、現在返済が進行している融資に対して、新しい融資契約を結んでそれを実行し、既存融資の融資残高を繰り上げ返済して、新しい融資に一本化することを言います。それが実現すると、返済期間が倍になると、元本の返済額は月次で半分程度に減らすことができます。金利の上昇以上に月次の元本返済を減らすことできて、総支出を抑えることができる可能性があります。金利は損金に勘定されますが、元本は支払っているが損金ではありません。では金利より元本を減らす方が企業にとってメリットがあるということになります。この対策は金融機関にとって先述したデメリットがなくなり、金利は上げてもよく、返済期間が長くなると実際に金利総額は大きくなって銀行のメリットが増えます。ただ、融資期間の長期化は本部の融資部や審査部ではできればやりたくないことなので、担当者と密に相談しながら稟議をあげてもらう必要があります。②預金を積んで実質金利を上げることで交渉する預金を積むと、金融機関の実質の貸出金利は大きく上がります。これは実務経営者にはあまり知られていません。取引金融機関から預金を頼まれる時にも、実質金利を上げたいと思っているとは気づいておられないかもしれません。企業に3000万円の融資を金利3.0%で実行すると金融機関にとっては年率3.0%の収益ですが、その企業から、2000万円の定期預金を組んでもらうと、実質的に貸しているのは1000万円で、3000万円の3.0%の収益が見込めるので年率:9.0%の収益となり、金利は3倍に上がるということになります。逆に言いますと、同一の金融機関の定期預金を解約して、その資金で融資の繰り上げ返済を行うことは避けなければなりません。金融機関側にダメージが生じるからです。予定していた融資額が減少する+予定していた利息収益が減少するという「繰り上げ返済」のダメージに、予定していた預金額が減少するというダブルのダメージを受けるということです。このため、預金をいくら積むと金融機関の金利はどの程度になるか計算して、そこで預金を入れるのと合わせて借入金利の上昇幅の交渉を行う方法があります。提供:税経システム研究所
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2026/09/30 医療経営
戦略的医療機関経営 その173
【サマリー】病院の中は患者のあらゆる情報があふれかえっている。患者の診療のためには、患者の情報を共有化して、医療職の専門性を各職種が発揮して診断や治療を行う。しかし、このような環境になれると、個人情報の中で、仕事をしていることをつい忘れてしまうこともある。マスコミなどで時々、患者情報が入ったUSBを紛失したなどのニュースが流れる。さらに個人情報を取り巻く環境は著しく変化している。その変化に対応するために「個人情報保護法」は3年に一度改正される。2026年はその改正年にあたり、改正の内容が明らかになった。今回の改正は今までの改正よりも大幅な改正内容であり、医療機関側もその改正内容に対応が必要になってくる。速報として個人情報保護法の改正内容を伝え、考えうる医療機関の準備を考察したい。1.はじめに(個人情報保護法の基本)個人情報保護法に規定されている個人情報とは、「個人を特定できる情報」を指します。顔写真など単体で個人が特定可能な情報はもちろんですが、複数の情報をいくつか組み合わせて個人が特定される個人情報もこの法律の対象となります。また、法律の対象は生存している個人ですが、死亡したからといってその故人の情報が守らなくてよいというものではありません。世の中には様々な個人情報が溢れかえっていますが、病院の中にもカルテをはじめとして、患者の情報が溢れかえっています。このような患者の情報は特に注意しなければならない情報として、「要配慮個人情報」(センシティブ情報)と規定されています。ちなみにこのセンシティブ情報は金融情報もあります。個人情報保護法で特に注意する点は、個人情報を利用目的以外に利用してはいけないこと。個人情報を入手する際は事前に利用目的を明らかにして同意を得ることと、一旦預かったらその個人情報を適切に管理すること。利用目的を達成後、その個人情報を第三者に提供することに十分に気を付けなければいけないことです。しかし、医療では例外があります。個人情報の入手の同意については、異論や同意しない人のみ申し出ることになっています。「暗黙の同意」と言われています。さらに前述した入手した個人情報を個人の同意なく第三者に提供することが禁止されていますが、この点にも例外があります。例えば、大災害時の安否確認を第三者に情報を提供することは、患者の事前同意は必要ありません。さらに裁判所、弁護士事務所、警察などから捜査令状などに基づく要請の場合も個人の事前同意は必要ありません。ただし、最近は警察のような機関をかたり、個人情報を聞き出す輩もいますので、折り返しの電話などで相手を確認することは必須です。個人情報保護法で最も気をつけなければならないことが「情報漏洩」です。人間はミスをする動物です。ミスを起こすことを前提に対応策を考えることが重要です。□安全管理措置2.改正個人情報保護法の内容今回の改正の背景は急速に進む医療デジタル化と関連する権利侵害リスクが高まるという点です。これらの時代背景を踏まえて大きく4点改正されました。□4つの主な改正点個人情報の利活用の円滑化16歳未満の子供の個人情報の取り扱い生体情報の厳格化実効性の強化個人情報の利活用が拡大されていますが、同時に規律が強化されています。車の運転で例えると、アクセルとブレーキを同時に踏むようなものです。(1)個人情報の利活用の円滑化医学の発展、研究のために医師などは学会発表など研究発表を行います。当然、発表内容の中心は臨床症例と呼ばれる患者の個人情報です。現行法でも学術研究の場合は、事前同意は必要ないなどの例外規定はありますが、今回の改正内容では、さらに明確化されました。また特に医療画像診断など診断支援システム開発のために、生成AIに患者のデータを事前学習させる場合も事前同意が必要ないことが明確になりました。このように個人情報の入手や第三者への情報提供など、「本人の意思に反しない」ことが明らかな場合は同意を得なくても良いとされました。このことで、患者の治療に必要な患者情報の共有化が安心して行うことができます。(2)16歳未満の患者についての取り扱い親権者などの法定代理人の同意を得ることが義務付けられました。小児科がある医療機関はもちろんですが、小児科がなくても、16歳未満の患者が来院する可能性があるので、事前の準備が必要です。具体的には、手術や処置など事前に同意を得ることが必要な書類や問診票に法定代人が署名する欄を設けて、必ず署名をもらうことが必要になります。(3)生体情報の厳格化医療機関に行くと、マイナンバーを使って顔認証(特定生体個人情報)を行うことが当たり前になってきました。このような顔認証システムが今後、様々な場面で利用されることが予想されます(新生児室の入室など)このような状況を受けて利用目的、保存期間などを事前周知することが義務化されました。周知方法としてはホームページなどで顔認証システムをどのような場面で使用しているのかとか、セキュリティなどのことを掲示することが必要になります。また生体情報はいかなる場合においても、第三者提供は禁止です。(4)実効性の強化病院は様々な部署で業務を外部に委託しています。その外部事業者が仮に情報漏洩した場合も病院は管理者として責任を問われます。委託先の管理をしっかりすることと、再委託があった場合、その再委託先も医療機関事前には把握していなければなりません。この(事前に把握していた)証明のために契約書などで、明記しておくことが必要になります。仮に個人情報が外部に漏洩した場合、すみやかに、「個人情報保護委員会」に連絡し指示を受けることになっています。現行法では、漏洩した情報の個人に対し情報漏洩した事実を通知することが原則でした。しかし、近年はUSB等の媒体にっては、何千、何万に及ぶこともあり個人に通知することが非常に困難なケースも出てきました。今回の改正では、漏洩した情報が個人の権利利益保護に欠けるおそれが少ない場合は、個人通知ではなく、代替措置で省略できることになりました。代替措置とは、ホームページなどで掲示することです。注意としては、医療機関自らが、権利利益保護に欠ける恐れが少ないケースと独自判断するのは危険です。必ず個人情報保護委員会と相談しながら、判断することが肝要です。3.医療機関の対応改正個人情報保護法の対応としては前述した準備対応に加えて、現在の院内のルールの可視化から始めます。院内掲示の表現、文言、ホームページ掲載内容、契約書などの文書の見直し、個人情報保護法や情報漏洩、職員のSNSなどの職員研修(年に1回は実施)、さらに外部からのハッキング対応(近年は特に重要)が考えられます。医療機関の監査時には、必ずと言っていいほど「個人情報保護についての研修は実施していますか」と聞かれます。冒頭にも記述しましたが、医療機関の職員たちは、センシティブ情報に囲まれて仕事をしているということを忘れてはいけません。情報漏洩がいったん起こると今まで築き上げてきた患者との信頼関係が一瞬で崩れ去ります。一旦崩れた信頼関係を再度築くのは非常に大変であると自覚が必要です。提供:税経システム研究所
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2026/08/31 人事労務管理
退職に関わるトラブル回避(第17回) 「定年退職後の継続雇用2」
【サマリー】前回のレポートでは、定年後再雇用制度の基本的な考え方について解説しました。高年齢者雇用安定法では、定年を65歳未満に定めている企業に対し、原則として希望者全員について、65歳までの雇用機会を確保することを求めていますが、定年前と同じ職務や賃金をそのまま保障する制度ではありません。一方で、再雇用後の職務を本人の経験や能力とかけ離れたものに変更したり、本人が受け入れることが困難なほど低い労働条件を提示したりした場合には、実質的な再雇用拒否として、高年齢者雇用安定法の趣旨に反すると判断される可能性があることも解説しました。また、定年後に有期労働契約として再雇用した場合には、いわゆる「雇止め」の有効性が問題となり、会社による説明、これまでの更新実績、本人の勤務状況、更新への期待などが判断材料となることを確認しました。今回は、定年後再雇用をめぐる企業実務上特に重要な4つの裁判例を取り上げます。1.重要判例1「音響機器会社事件東京地裁令元・5・21判決」音響機器の設計業務に従事していた従業員に対し、会社が定年後の再雇用条件として、定年前とは異なる部署への配置と職務内容を提示しました。従業員は、これまでの経験や能力を十分に生かせない条件であるとして提示を拒否し、定年前と同様の業務を内容とする雇用関係の確認や損害賠償などを求めました。東京地裁は、高年齢者雇用安定法は定年前と同一の職務や労働条件による再雇用まで保障するものではなく、会社が提示した条件も不合理とはいえないとして、従業員の請求を退けました。<事案の概要>音響機器メーカーであるY社のサウンド設計部で長年設計業務に従事していたXは、60歳の定年に際し、それまでとは異なる部署・職務内容および異なる雇用条件を提示されました。Xは、これまでの職歴や能力が十分に考慮されていないとしてこれを拒否したため、再雇用契約は締結されませんでした。そこでXは、高年齢者雇用安定法(以下「高年法」という)第9条を根拠に、Y社には定年前と同様の業務またはその経験・能力を生かせる業務で再雇用する義務があると主張し、雇用契約上の地位確認、賃金の支払いおよび損害賠償を求めて提訴しました。<判決のポイント>裁判所は、高年法第9条は事業主に65歳までの雇用確保措置を義務付けるものであるが、定年前と同一の職務内容・役職・賃金等での雇用継続までは義務付けていないと判断しました。定年により正社員としての労働契約はいったん終了し、再雇用契約は別個の契約となるため、労働条件が定年前と異なること自体は許容されるとしました。Xは、津田電気計器事件(最高裁判決)を根拠に定年前と同様の条件による雇用関係の成立を主張しましたが、裁判所は、同事件が会社の定める再雇用基準を満たす従業員の再雇用を会社が一方的に拒否した事案であるのに対し、本件はY社が具体的な条件を提示しXがこれを拒否した事案であるとして、事案が異なり同事件の判断はそのまま適用できないとしました。さらに、Y社が提示した業務は実際に必要とされる業務であり、Xを侮辱し再雇用を断念させる目的で設定されたものとは認められないこと、賃金その他の労働条件も社会通念上到底受け入れられないほど不合理とはいえないことから、提示条件は高年法の趣旨に反しないと判断しました。その結果、裁判所は、定年前と同様の業務や条件による再雇用契約が成立したとは認められないとして、Xの地位確認、賃金および損害賠償の請求をいずれも棄却しました。<学ぶべきポイント>本件は、定年後再雇用において、企業が定年前とは異なる職務内容や労働条件を提示すること自体は直ちに違法とならないことを示した事案です。高年法は65歳までの雇用機会確保を求めるものの、定年前と同一の職務・役職・賃金の維持までは保障していません。ただし、形式上は再雇用条件を提示していても、実際には不要な業務をあえて設定した場合や、経験・能力と著しくかけ離れた職務を提示した場合、本人が到底受け入れられない条件で再雇用を断念させようとした場合には、実質的な再雇用拒否として高年法の趣旨に反すると判断される可能性があります。企業としては、提示する職務が実際に必要であること、本人の経験・能力・健康状態を考慮して配置を検討したこと、定年前と同じ業務を継続できない理由を説明できるようにしておく必要があります。また、定年の数か月前から本人と面談を行い、希望や条件を確認し、面談記録や条件提示書の形で残しておくことが紛争防止につながります。企業には再雇用条件を決定する一定の裁量が認められる一方、その条件が業務上の必要性に基づく合理的なものであることと、本人への誠実な説明が強く求められることを示した判例です。2.重要判例2「惣菜製造会社事件福岡高裁平29・9・7判決」惣菜の製造販売会社で定年を迎えた従業員が、定年後もフルタイムでの再雇用を希望したところ、会社から週3日または4日、1日6時間、時給900円という短時間勤務の条件を提示されました。この条件では月収が定年前の約25%となるため、従業員は受け入れず、再雇用契約上の地位確認や損害賠償を求めました。福岡高裁は、具体的な労働条件について合意がないため再雇用契約の成立は認めませんでしたが、月収を約75%減額する条件を提示し続けた会社の対応は、継続雇用制度の趣旨に反する違法な行為であるとして、100万円の慰謝料の支払いを命じました。<事案の概要>惣菜の製造販売を行うY社で経理・決算業務に従事していたX(定年時の月額賃金33万5,500円)は、60歳の定年後もフルタイムでの継続雇用を希望しましたが、Y社は週3日または4日・実働6時間・時給900円というパートタイムの条件を提示しました。この条件による月額賃金は8万6,400円(16日勤務換算)で、定年前賃金の約25%の水準であり、約75%の減額となるものでした。Xはこの条件を受け入れず、再雇用契約は締結されませんでした。そこでXは、再雇用契約を締結したのと同様の雇用関係が成立しているとして地位確認・賃金の支払いを求めるとともに、著しく不合理な条件提示は違法であるとして不法行為に基づく損害賠償を求めて提訴しました。第一審(福岡地方裁判所小倉支部)はXの請求をいずれも棄却しましたが、控訴審の福岡高裁は、地位確認請求は認めなかったものの、Y社の条件提示について不法行為の成立を認めました。<判決のポイント>裁判所はまず、所定労働日数・労働時間・賃金という労働契約の根幹に関わる条件についてXとY社の間に合意が成立していないことから、抽象的に再雇用契約が成立したとは認められないとして、地位確認請求を棄却しました。一方、条件提示の違法性については、高年法第9条の雇用確保措置義務は、希望どおりの労働条件で雇用することまで直接義務付けるものではなく、労働条件の決定は原則として会社の合理的な裁量に委ねられるとしました。もっとも、同義務は労働契約法制における公序の一内容を構成するため、極めて不合理で高年齢者の希望・期待に著しく反し、到底受け入れ難い労働条件を提示する行為は、継続雇用制度の趣旨に反する違法な行為となり得るとしました。裁判所は、継続雇用制度は定年前後の労働条件の継続性・連続性が一定程度確保されることが前提であるとした上で、Y社の提示条件(時給900円は定年前賃金換算の約1,944円の半額未満)により月収が定年前の約25%にまで減少する点を重視しました。Y社は店舗数減少による業務量減少を理由としましたが、裁判所は、Xが担当予定の決算業務店舗数(43店舗)が定年前(46店舗)とほぼ変わらないこと、Y社全体の店舗減少も1割弱にとどまること、人員配置や業務分担の見直しでフルタイムに見合う業務を用意できたと考えられることから、大幅な減額を正当化する合理的な理由は認められないとしました。そのため、Y社が他の条件を十分検討せずこの条件に終始したことは、継続雇用制度の趣旨に反し裁量権の逸脱・濫用に当たり違法であると判断しました。契約の成立は認めなかったものの、Xが65歳まで安定的な雇用を享受できる法的保護に値する利益を侵害されたとして不法行為の成立を認めた上で、定年前後の労働条件の継続性が著しく欠けていたこと、店舗数の減少を理由とする条件提示には一定の理由があったこと、高年齢雇用継続基本給付金(月額約1万4,610円)の支給見込みなどを総合的に考慮し、慰謝料100万円と判断しました。<学ぶべきポイント>本件は、定年後再雇用の労働条件について企業に一定の裁量が認められる一方、その裁量には限界があることを示した事案です。定年後に職務内容や責任が軽減されることに伴う賃金引下げ・勤務時間短縮自体は認められますが、著しく低い労働条件を提示する場合には合理的な理由が必要です。裁判所は、単に減額率だけでなく、実際の業務量の減少幅、フルタイムに見合う業務を用意できたか、他の配置や分担を検討したかを重視しています。「高齢者だから」「定年後だから」という抽象的な理由だけでは不十分であり、業務量・職務内容・責任の程度と勤務条件との対応関係を具体的に整理する必要があります。また、条件提示が違法とされても、具体的な労働条件について合意がなければ再雇用契約の成立までは認められません。企業としては、一方的に条件を提示するのではなく、本人の希望を確認し、複数の勤務形態を提示して、職務内容・勤務時間・賃金の関係を明確に説明することが重要です。大幅な減額を行う場合は、業務量の変化、他の配置検討の結果、本人への説明内容などを記録に残しておく必要があります。企業には、再雇用後の職務・労働時間・賃金の対応関係を明確にし、本人が実際に就労を継続できる合理的な条件を提示するとともに、その理由を客観的に説明できるようにすることが求められると示した判例です。3.重要判例3「外資系エアライン事件東京地裁令5・6・29判決」航空会社に勤務していた従業員が60歳の定年を迎え、定年後の再雇用を希望しましたが、会社は、新型コロナウイルスの影響による旅客需要の急減と人員削減の必要性を理由に、再雇用を拒否しました。従業員は、再雇用拒否には解雇と同様の厳格な法理が適用されるとして、雇用契約上の地位確認などを求めました。東京地裁は、定年後の再雇用契約の成立には解雇権濫用法理は適用されず、会社の就業規則に定める再雇用除外事由にも該当するとして、従業員の請求を退けました。<事案の概要>航空旅客運送事業を営むY社の就業規則では、従業員は満60歳で定年退職となる一方、希望者には1年の有期労働契約を更新する形で再雇用する制度が設けられていました。ただし、事業縮小・人員整理・組織再編などにより担当職務やポジションが削減された場合には、再雇用の対象としない旨も定められていました。Xは令和2年12月に満60歳の定年を迎えましたが、当時Y社は新型コロナウイルスの影響による旅客需要の急減で収益が急激に悪化しており、人員削減・労務費削減を進めていました。その一環として定年退職者の再雇用を中止し、削減可能なポジションを廃止して後任を補充しない方針を定め、この方針に基づきXのポジションも削減して再雇用しませんでした。Xだけでなく、その後定年を迎えた他の従業員にも同様の扱いがされました。そこでXは、①就業規則上、再雇用契約の申込みを承諾する義務がある、②再雇用拒否は実質的に解雇と同様であり労働契約法16条の解雇権濫用法理が適用または類推適用される、③従前の運用から再雇用への合理的期待があり労働契約法19条の雇止め法理が適用または類推適用される、と主張して雇用契約上の地位確認などを求めて提訴しました。<判決のポイント>裁判所はまず、定年により従前の労働契約は終了し、再雇用契約の成否は新たな契約成立の問題であるとして、既存の労働契約を使用者が一方的に終了させる場合に適用される労働契約法16条の解雇権濫用法理は、定年後の再雇用契約の成否には適用されず、類推適用もされないと判断しました。一方、労働契約法19条2号の雇止め法理については、雇用継続への期待に合理的理由がある場合には適用または類推適用の余地があるとしつつ、本件では、就業規則に事業縮小等による職務削減時の再雇用除外事由が明記されていたこと、Y社が社内ニュース等で経営悪化や人員削減方針を説明していたことから、Xの期待に合理的な理由があったとは認めがたいとしました。また、Y社は新型コロナウイルスの影響による旅客需要の急減と収益悪化により労務費削減が必要であり、定年退職者の再雇用中止・ポジション廃止・後任不補充という施策はXだけでなくその後の定年退職者にも一律に適用されていたことから、Y社がXを再雇用しなかったことには客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当性を欠くものとはいえないと判断しました。さらに、この事情は就業規則に定める再雇用除外事由(事業縮小・人員整理・組織再編等による職務削減)にも該当すると認め、XとY社との間に定年後の再雇用契約が成立したとは認められないとして、Xの請求をいずれも棄却しました。<学ぶべきポイント>希望者全員を対象とする定年後再雇用制度があっても、事業縮小等により担当させる職務が客観的に存在せず、就業規則上の再雇用除外事由にも該当する場合には、再雇用を行わないことが認められる余地があります。高年法は原則65歳までの雇用機会確保を義務付けますが、事業縮小・人員整理・組織再編等により現実に担当させる職務がなくなった場合には、再雇用を行わないことが認められる余地があります。ただし、「経営が厳しい」という抽象的な理由だけでは足りず、本件のように具体的な経営状況、削減方針の内容、他の退職者への一律適用などが重視されています。企業が事業縮小等を理由に再雇用を拒否する場合には、経営悪化の具体的内容、人員・労務費削減の必要性、担当させる職務が存在しないこと、ポジション廃止の経緯、他部署への配置可能性の検討結果、同様の立場にある退職者の取扱い、本人への説明内容と時期を説明できるようにしておく必要があります。また、就業規則に再雇用除外事由を具体的に定めておくことが会社の判断を支える重要な要素となります。「会社が必要と認めた者を再雇用する」といった曖昧な条項では恣意的判断を許すおそれがあるため、解雇事由・退職事由への該当や事業縮小による職務廃止など、客観的に判断できる内容を定めることが重要です。ただし、規定を置くだけでなく、実際に該当事情があること、経営判断に合理性があること、他の従業員との公平性、本人への十分な説明も必要です。本判決は、定年後の再雇用拒否には解雇権濫用法理は適用されないとしつつ、過去の実績や会社の説明・規程から再雇用への合理的期待が認められる場合には雇止め法理が適用され得るとしました。したがって企業は、再雇用制度の内容や再雇用しない場合の基準を明確にし、制度を中止・変更する際には対象者へ早めに説明することが求められます。要するに、企業は経営上の合理的必要性があり再雇用後の職務が現実に存在しない場合には再雇用を拒否できる可能性がありますが、その判断を正当化するには客観的根拠と一貫した運用が強く求められることを示した判例です。4.重要判例4「学校法人Y学園事件東京地裁平28・11・30判決」大学の専任教員として勤務していた従業員が65歳の定年を迎え、定年後も特別専任教員として再雇用されることを希望しましたが、学校法人は再雇用を拒否しました。従業員は、採用前に70歳まで雇用が保障されるとの説明を受けていたことや、従来は希望者全員が例外なく再雇用されていたことから、70歳まで雇用される合理的な期待があったとして、再雇用後の地位確認などを求めました。東京地裁は、従業員には70歳まで雇用が継続されるとの合理的な期待が認められ、再雇用を拒否する客観的かつ合理的な理由もないとして、特別専任教員としての労働契約上の地位を認めました。<事案の概要>学校法人Yの就業規則では専任教員の定年は満65歳と定められる一方、定年退職者を1年の有期労働契約で特別専任教員として再雇用する制度が設けられ、契約更新の上限は70歳とされていました。Yでは過去約15年間、再雇用を希望した専任教員7名について例外なく70歳まで再雇用する運用が行われていました。Xは、Yへの採用前に、65歳以降は総報酬が約7割になるが職務内容は変わらず70歳まで雇用が保障されるとの説明を受け、これを信頼して前職を退職しYに転職しました。しかし、Xが65歳の定年を迎えた際、Yは特別専任教員としての再雇用を拒否しました。そこでXは、採用前の説明、再雇用規程の内容および従来の運用からすれば70歳までの再雇用について合理的な期待があり、Yによる再雇用拒否は無効であるとして、特別専任教員としての労働契約上の地位確認などを求めて提訴しました。<判決のポイント>Yの定年は65歳であったため、65歳未満の定年制事業主に65歳までの雇用確保措置を義務付ける高年法第9条は直接適用されず、Yに70歳までの再雇用義務はありませんでした。しかし裁判所は、高年法が直接適用されない場合でも、労働者が定年後も再雇用されることを期待することに合理的な理由がある場合には、その期待が法的に保護されうるとしました。この判断にあたり、有期労働契約の更新期待を保護する労働契約法19条2号の趣旨を類推適用し、定年により無期契約はいったん終了するため同条を直接適用することはできないものの、雇用継続への合理的期待を保護する趣旨は定年後再雇用にも妥当するとしました。合理的な期待の有無について、裁判所は、①70歳までの再雇用制度が設けられていたこと、②長年にわたり希望者全員が例外なく再雇用されてきたこと、③採用前に報酬が7割になるものの70歳までの雇用が保障される旨の具体的な説明を受け、これを信頼して前職を退職し転職したことを重視し、Xの期待には十分合理的な理由があると認めました。一方、Yが再雇用を拒否したことについて、その期待を否定するに足りる客観的に合理的な理由や、拒否せざるを得ない特段の事情は認められませんでした。そのため裁判所は、Yによる再雇用拒否は客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当とは認められないと判断し、YとXとの間には再雇用規程に基づき特別専任教員として再雇用されたのと同様の労働契約関係が成立しているとして、Xの地位を認めました。<学ぶべきポイント>本件は、高年法の義務が直接適用されない65歳以降の再雇用であっても、会社の説明・規程・過去の運用によって、労働者に雇用継続への合理的な期待が生じうることを示した事案です。65歳までの雇用確保は法律上の義務ですが、70歳までの就業機会確保は努力義務にとどまるため、65歳定年制の企業が法律上当然に70歳まで全員を雇用しなければならないわけではありません。しかし、企業が独自に70歳までの再雇用制度を設け、原則として再雇用される旨を説明し、実際にも長年希望者全員を再雇用してきた場合には、雇用継続への合理的な期待が生じ得ます。特に採用前の説明は重要な考慮要素とされており、「70歳まで働けます」など断定的な説明をした場合には、労働契約の内容や期待を形成する可能性があります。制度の文言だけでなく実際の運用も重視される点にも注意が必要です。規程上は選考の余地があるように記載されていても、長年にわたり希望者全員を再雇用してきた実績があれば、合理的な期待が形成されることがあります。将来対象者を限定する可能性がある場合には、基準を明確にして一貫して運用し、運用を変更する際は事前に対象者へ説明することが求められます。企業としては、再雇用制度の対象者・契約期間・更新基準・職務内容・報酬・再雇用しない場合の事由・制度説明資料・過去の再雇用実績などを整備し、再雇用を拒否する場合には客観的に説明できる基準に基づいて判断し、その検討過程を記録に残しておく必要があります。また、組合活動や職務遂行能力と関係のない事情を判断要素とすべきではありません。再雇用制度は法律上の義務として設けたものでなくても、一度制度として明示し長期間一定の運用を続ければ、企業が自由に変更・拒否できない場合があることを示した判例です。提供:税経システム研究所
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